(仮に神澤さんと付き合うことになったとしても、彼がすぐに結婚を望んでくれるかわからないし)
優香はオフィスの廊下で立ち止まり、両手で持っていた分厚いファイルの山を持ち直した。倉庫まではまだ遠い。
(神澤さんと、結婚……)
先日の快感が蘇り、いいかも、などと思ってしまった。
優香は首を横に振り、結婚までの道のりもまだまだ遠い、と心のなかでつぶやいてから一歩を踏み出す。すると急に目の前のファイルが半分になった。
「おはよう。倉庫に行くところ?」
「は、はい。……おはようございます」
神澤は優香が持っていたファイルの半分を軽々と小脇に抱えた。右足を踏み出したままきょとんとしている優香の顔をのぞき込んで、穏やかに笑う。
「倉庫までご一緒しても?」
「あ、うっ……はい。ありがとうございます」
「うん」と返事をして神澤は歩きだす。
優香はコホンと咳払いをして、ぎこちない動きで神澤のななめうしろを歩いた。
(神澤さんは何でこんなに普通なのー!?)
少々腹立たしさを感じるほど、彼はいつもどおりだ。
(意識してるのは私だけ……?)
何事もなかったようにされると堪《こた》える。いや、彼にとっては大したことではないのだろうか――。
悶々としたまま倉庫に到着した優香は黙々とファイルを所定の位置にしまった。
神澤はというと、手にしていたファイルを棚にしまったあとで別の棚に移動して、古い資料を確認していた。
倉庫にはもう用がないので、神澤に挨拶をして先に部署へ戻るつもりだった。
「神澤さん、私は先に戻ってますね」
「俺ももう戻る」
――トン。
神澤の片手が顔の真横にある。どうしてか壁際に囲い込まれている。
「あ、あの……?」
彼を見上げると、真剣な顔つきをしていた。しだいに近づいてくる。
顔をそむけることもできたはずなのに、優香は動かなかった。
少しひやりとする、彼の唇。重ね合わせているうちに、互いの温度になじむ。
「ん……んんっ」
口づけはどんどん深くなっていく。
つながりあった夜のことを思い出す。会社で顔を合わせた神澤はあまりにもいつもどおりで、あの夜のことを忘れてしまったのではないかと思っていたけれど、そんなことはないようだ。
舌と舌を絡め合わせれば、過ぎた夜の悦びがよみがえる。
「――こんなところでダメです、って言われると思った」
ほんの少しだけ唇を離し、神澤は目を細める。
優香は「あ、ぅ」と言いよどみながら挙動不審になった。
(本当、神澤さんの言うとおり)
――ここは会社の倉庫なのだから。
そもそも、ただの上司と部下はこんなふうに口づけを交わさない。
「わ、私……」
「今夜、時間ある?」
「えっ?」
まだ月曜日なのに、飲みにでも行こうというのだろうか。