秘されし、その甘やかな救済 《 第二章 02


「――ラティーシャ」

 その声は耳に心地よく響いた。ラティーシャは我に返り、レイヴンの両手を勢いよく振り払ってあとじさった。

「こっちへおいで、ラティーシャ」

 声の主を見るなりラティーシャは安堵した。まわりをよく見ればここはシュバルツ公爵邸の目の前だ。

「公爵、さま……」
「俺の邸に寄るといい。このあたりは意外と物騒だ。可憐なきみに変質者が危害を加えるかもわからない」

 マティアスはレイヴンのほうを見ながらそう言って、ラティーシャを邸の中へいざなう。公爵の執事らしき男性が邸の門を開ける。

「なっ――」

 変質者よばわりされたことが気に障ったらしく、レイヴンの眉が吊り上がる。

「ああ、貴殿も夜道にはお気をつけください」

 マティアスはレイヴンに向かって白々しくほほえむ。
 ラティーシャはうながされるまま公爵邸の門をくぐった。ここで遠慮して帰路についても、レイヴンになにをされるかわからないので、しばらくかくまってもらうほうがいい。

(公爵さまに迷惑をかけてしまうのは心苦しいけれど……レイヴンが、怖い)

 邸の中へ入る寸前、ちらりと門の外を見やるとレイヴンはまだ同じ場所にいた。今までに見たこともないくらい、怒りをあらわにしたおぞましい顔をしていた。

「大丈夫か、ラティーシャ」

 邸の中に入るなりマティアスはラティーシャに尋ねた。

「は、い……。申し訳ございません、ご迷惑をお掛けして……。あの、お出かけになるところだったのではないですか」

 でなければあの場に居合わせるはずかない。

「ああ、視察に行くところなんだ。だから……付き添ってやれなくて、すまない。小一時間で戻るから、それまでは――そうだな、ルーサーにきみを護らせよう」

 マティアスが、扉の前に控えていた家令のルーサーに目配せをする。
 ラティーシャは眉尻を下げる。

「そんな、どうかお気遣いなく。お邸の中で……ここで、少しのあいだ過ごさせていただければじゅうぶんですので」

 心臓はいまだにドクドクとうるさく脈打っている。恐怖心で緊張している。ラティーシャの顔はひどく青ざめていた。
 マティアスはラティーシャに有無を言わせない。

「ルーサーと、それから女性の使用人も一緒に、だ。安心して邸でくつろいでいてくれ」

 公爵の手が頭上に伸びてくる。しかし、彼の手がラティーシャの頭に触れることはなかった。マティアスは伸ばした手をラティーシャに触れる前にピタリと止めて握りこぶしをつくり、引っ込めた。

「――では、行ってくる」

 マティアスがきびすを返す。

「行ってらっしゃいませ、公爵さま。どうかお気をつけて」

 レイヴンが逆恨みして公爵になにかしでかさないか心配だ。
 不安げな顔のラティーシャをよそにマティアスはにやにやしている。

「……どうなさいました?」
「いや、すまない……。きみは怖い思いをしたというのに……きみに見送ってもらえるのが嬉しくて、ついにやけてしまう」

 コホンと咳払いをしてマティアスが出て行く。扉が開いて外が垣間見えた。レイヴンの姿はもうなかった。

前 へ    目 次    次 へ