秘されし、その甘やかな救済 《 第三章 08

 神殿に赴く機会は多々あったが、ラティーシャのことはいつも遠くから眺めるばかりだった。悶々とした日々が酒をすすませる。そうして、あのような愚行に出たわけだ。

(ラティーシャは、道端で倒れている俺を助けてくれた)

 情けない接触の仕方だったが、きっかけにはなった。ラティーシャの人となりを知り、ますます彼女に惚れ込んだ。

(ずっと想ってきたんだ。あせって無下にはしたくない。困らせたくもない――)

 みずみずしい唇を指で撫でたどる。そこへ食らいつきたいのをグッとこらえて、マティアスはラティーシャに触れるか触れないかの口づけをした。
 もっと寝顔を見ていたいという思いを押し込めて、マティアスはラティーシャの寝室をあとにした。


 その日は早朝から郊外のワイン工場を訪れていた。あたりにただよう葡萄の香りを満喫しながら、工場長に勧められるまま試飲する。がぶ飲みするのはやめておいた。一応、職務中だ。

「今年のワインは格別かと」
「ああ、そのようだな。国外に贈答用としての出荷を検討しよう」
「ありがとうございます!」

 恰幅のよい中年の工場長はパアッと表情を明るくさせた。

「公爵さま、土産に何本かお持ちください」
「ありがたく頂戴する」
「ではすぐに持って参ります!」

 工場長は喜々としたようすで小走りをして事務所へ入っていく。ぼとぼとと走る彼の背を見送りながらマティアスは帰り支度をした。そばに立っていたルーサーが羊皮紙をめくって次の予定を確認している。

『――マティアス!』

 馬車に乗り込もうとしていたマティアスは驚いてうしろを振り返る。しかしそこには小太りの工場長がワインを持って走ってきているだけだ。彼に、名前で呼び止められたわけではない。

(なんだ? いまのは……)

 聞き覚えのある声だった。高くも低くもない、少年のような声――。

『マティアスッ、僕の声が聞こえる!?』
「――!」

 幻聴などではなかった。確かに聞こえた。それは神殿の奥にいる神の声。

「聞こえている」

 そう返すと、ルーサーは首を傾げた。どうやらアドニスの声は自分にしか聞こえていないらしい。

「マティアス様、どうなさいました?」
「……神の声が聞こえるんだ」

 ――ああ、もしこれがルーサー相手でなければ頭がおかしくなったと思われたに違いない。しかし彼は神殿に少年の姿の神が住んでいることを知っている。不審がることなく、「では私は黙っておきます」と言って口をつぐんだ。
 マティアスはアドニスの声に耳を澄ます――といっても、頭の中に直接響いているような感覚だ。

『ラティーシャが危ないんだ! 祈りの間の近くにいる。早く助けてあげて! 僕は空から落ちてくるものを何とかするので精いっぱいなんだ』
「な――!?」


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