秘されし、その甘やかな救済 《 第三章 10

(そうよ……。今日は神殿にほとんど人がいない)

 そのことを再確認して、ラティーシャは絶望した。

(アドニスさまが言っていた『危ない』っていうのはこのことだったの?)

 いや、しかし――それならば、祈りの間にいるほうが安全だということになる。レイヴンが待ち伏せしていることには、アドニスは気がついていなかったのかもしれない。

(アドニスさまは何のことを言っていたの?)

 だがそのことを悠長に考えている場合ではない。レイヴンの手がラティーシャの白い長衣の裾をめくり始めた。ラティーシャは恐怖に震え、ますます声を荒げる。

「いやっ、やめて!」

 力のかぎり暴れた。膝が彼の脚のあいだに当たる。

「――っ!」

 するとレイヴンはラティーシャに蹴られたところを押さえてうずくまった。よくわからないが、いまならば逃げ出せる。
 ラティーシャが駆け出そうとした、そのときだった。
 ドォォォン――と、けたたましい音がした。地面が揺れ、天井が崩れ落ちる。崩れたのは一部だけだった。総崩れしたわけではない。

(な、なに……!?)

 ラティーシャはレイヴンと同じように頭を押さえてうずくまった。ふと彼を見やる。レイヴンの足からは血が流れ出ていた。

「……!」

 剥がれ落ちた天井がちょうど彼のくるぶしのあたりに当たってしまったらしい。

「う……っ」

 レイヴンは傷の近くを押さえて苦しそうにうめいている。
 ラティーシャは迷った。このまま逃げるか、彼の手当をするか。

「……止血しなければ」

 自分自身に言い聞かせるようにそう言って、ラティーシャはレイヴンに歩み寄る。
 いっぽう彼はラティーシャの行動に驚いているようで、目を大きく見開いている。ラティーシャは真新しい長衣の裾を破いて彼の足にぐるぐると巻き付けて縛った。

「ラティーシャ……」

「いまあなたの傷の手当をしているのは自分のためです。あなたが生きようが死のうがどうだっていい。ただ、ここでなにもしないのは後味が悪いから。あなたのことでのちのち気を揉みたくない。それだけ」

 ラティーシャが口早にそう言うと、レイヴンはショックを受けたようだった。目を伏せてうなだれている。

「――ラティーシャ!」

 遠くから声が聞こえた。ラティーシャはその声で顔を上げて振り返る。

「マティアスさま!」

 美貌の公爵がこちらへ向かって走ってくる。ラティーシャの前までくると、マティアスは自身の膝に手をついて肩で息をした。

「きみが、危ない、という……神の、声が……っはぁ、聞こえた」

 絶え絶えにそう言って、マティアスは額の汗をうっとうしそうにぬぐう。

「あ、ありがとうございます……っ。助けにきてくださって」

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