秘されし、その甘やかな救済 《 第三章 11

「いや……このようすでは、俺の助けは不要だったようだ。きみ、平気か?」

 マティアスはレイヴンの足の怪我を見て眉根を寄せる。レイヴンはただうなずいただけだった。その顔色は青い。

「ラティーシャは? 怪我はないか?」

 立ち尽くすラティーシャの肩に触れようとして、しかしマティアスはそうしなかった。彼女の体を控えめに見まわし、怪我がないか確認する。

「私は平気です。どこも怪我はしていません」

 怪我は、していない。しかし先ほどは本当に恐ろしかった。神殿が崩れかけたことではない。レイヴンにされそうになったことを、このままうやむやにはしたくない。
 ラティーシャは床に座り込むレイヴンを険しい顔で見やる。

「あなたが私にしようとしたこと、神殿長の前で告白してくださいますか」
「……ああ」

 すっかり意気消沈したようすでレイヴンは返事をした。

「この怪我は、天罰かもしれない」

 悲痛な面持ちでレイヴンは続けてつぶやく。どうやら彼にも信仰心があったらしい。

「そう――天だ。さっき、空からなにかが落ちてきたんだ。神殿をめがけて」

 そう言うなりマティアスは慌てたようすで祈りの間の扉に手をかけた。祈りの間への扉を勢いよく押し開く。

「これは、いったい――……」

 そこは様変わりしていた。かつての様相は微塵も残しておらず、跡形もなくなっていると言っていい。ただひとつ存在しているのは、大きな塊。いびつな形の黒い石が、祈りの間の中央に鎮座している。
 蔓薔薇が活けられた花瓶は、どこにも見当たらない。ラティーシャは祈りの間の端から端までくまなく視線を走らせて神の姿を捜した。
 震え声で「アドニスさま!」と呼びかけてみるものの、いつものお気楽な声は返ってこない。
 マティアスは腕を組み、眉根を寄せてあごに手を当てた。

「……神殿が総崩れしなかったのは、アドニス様がこの祈りの間で空から落ちてきたこの石を受け止めてくれたからかもしれない。落下の衝撃を、この部屋だけにとどめたんだ。この扉の内外で差がありすぎる」

 片や、黒い石をのぞけばまっさらな空間。片や、祈りの間の外は天井の一部が剥がれ落ちた程度だ。

「そんな……。では、アドニスさまは?」

 ラティーシャはすっかり姿を変えた祈りの間へと駆け出し、黒い大きな石のうしろへ回り込んだ。しかしやはり、彼の姿はない。

「アドニスさま……」

 言いようのないなにかが込み上げてくる。彼とは――神とはついこのあいだ知り合ったばかりだ。まだまだ話し足りない。

(こんなことなら、マティアスさまのことをお話ししておけばよかった――)

 恥ずかしがって口をつぐんでいたことをひどく後悔する。
 ラティーシャは淡い期待を込めてもう一度だけ「アドニスさま」と呼びかけた。
 その声は、空虚な祈りの間に物悲しさをともなってこだまするばかりだった。

前 へ    目 次    次 へ