言いなりオフィス・ラヴ 《 01

 いつもの朝、いつもの通勤路。肌に触れる春風は暖かく、年度はじめにふさわしい晴々とした日だ。
 早起きの柚子川 仁美 (ゆずがわ ひとみ)は入社してから5年間、ほとんど毎日、営業部に一番乗りしていた。4月1日ともなれば余計に早く目が覚めてしまい、いつもより20分ほど早く会社に着いた。それなのにすでに出勤者がいた。

「中村くん……、じゃなかった。主任、おはようございます。本日づけの異動なのに、もういらっしゃるなんて」

「おはよう、柚子川さん。やだなあ、同期なんだから敬語は止めてよ」

「いえいえ、今日からは主任で上司なんですから。荷物の移動、お手伝いしましょうか。中村主任」

「ありがとう。でも、もう終わったから大丈夫だよ。それより、やっぱり敬語は止めてもらえないかな。あと、主任って呼ぶのもダメ。コレ、上司命令ね」

「えー、上司命令はズルいよ」

 慣れない役職名で呼ばれたことに照れているのか、中村はわずかに頬を赤くして指でポリポリとあごをかいている。
 彼とは新人研修のときに同じグループになって、同期の飲み会ではたびたび顔を合わせていた。笑顔が爽やかで人当たりもよく、それなりに仕事もできるようだから、今回の昇進は大いにうなづける。

「ところで柚子川さん、この部署の取引先についてちょっと聞きたいことがあるんだけど――」

 さっそく仕事をはじめる中村は本当に真面目だ。早めに会社には来るものの、ふだんはのんびりと爪磨きをする仁美とは正反対だ。やっぱりこういうひとが出世するんだなあと感心しながら、仁美は中村が手に持っていた建設業者のリストを一緒に見おろしたのだった。


「課長、クマノ工務店の発注リストです。ご承認よろしくお願いします」

「おっ、内装は全部うちがやることになったんだな。上出来、上出来」

 課長は仁美が渡した資料に目を通したあと、印鑑を押してそのうえにピンク色のふせんを貼った。

(あ……。今夜は会えるんだ)

 これはサイン。いつもの時間、いつものホテルで会おうという、合図。嬉しくて顔がほころんでしまう。笑顔のまま自分のデスクに戻ると、経理部の女性が通りかかった。

「柚子川さん、なにかいいことでもあったの?」

「経理部に朗報ですよ、高松さん。クマノ工務店の大口発注が取れましたっ!」

「それはよかった。でもできれば年度末に欲しかったなあ」

「もう、相変わらず厳しいですね」

 高松 杏菜 (たかまつ あんな)は2つ年上の先輩だ。営業部は女性が少ないから、なにかと可愛がってもらっている。

「ところで柚子川さん、今夜は空いてる? 経理部のみんなで飲みに行くんだけど、一緒にどう?」

「あー……ごめんなさい、今日はちょっと先約が」

「最近、つき合い悪くない? どうせ男でしょ。先にこっちに来てからにしなさいよ」

「いやー、それがなかなか……。高松さんは鬼篠係長といつもラブラブだからいいですけど」

 高松は視線を泳がせて頬を赤く染めた。
 自分のことになると途端にこうなっちゃうから、可愛らしい。彼女の恋人は同じ営業部の係長、鬼篠さんだ。とにかく美形で、地毛という噂の金髪に謙遜ない顔立ちはたぶんハーフなんだろうけど、彼と高松さんが一緒にランチをしているところを何度か見たことがある。美男美女だから、すごく目立つのだ。

「ま、いいわ。次は絶対、来てよね。柚子川さんがいてくれると盛り上がるのよ」

「はいっ、次回はぜひ!」

 仁美は顔の横に手を添えて敬礼のポーズをして、高松を見送った。
 背筋を伸ばして歩くうしろ姿は凛々しい。きっと彼女には、やましいことなんてひとつもないんだろうなと思いながら、仁美は彼女が鬼篠とアイコンタクトをして出て行くのを眺めていた。

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