マレットに席をすすめたロランは席を立ち、キッチンで茶を淹れるリルのもとへ向かった。小声で彼女に話しかける。
「リル、あれはマレット商会の御曹司じゃないか」
「なあに、彼を知っていたの? だったら紹介する必要なんてなかったじゃない」
「いや、直接の知り合いではない。おそらく向こうも僕のことを知っていたとは思うが。まあ、きみは何年もこの森に引きこもっているから知らないのも無理はないか。彼、相当のやり手だよ。マレット商会はここ数年で急激に業績を伸ばしている。彼がマレット商会の実質的な経営権を握ってから、急に」
「へえ、そうなの」
「……リル、彼になにかされたりしていないだろうね」
ロランの声がいっそうひそまった。リルは怪訝な顔をして尋ね返す。
「なにかって、なによ」
「いや、たとえばその……なにか、性的なことだよ」
「べつになにも。週に一度ふらりとやってきて、お茶を飲んで薬を持って帰って行くわ」
「ふうん……」
「それよりもお兄様、早くお帰りになったら? カトリオーナがあなたの帰りを待っているでしょう。奥様もね」
兄の背をぐいぐいと押して玄関へ誘導する。マレットのためのハーブティーはいま蒸らしているところだ。
「あ、ああ……。それじゃあ僕はこれで失礼するよ」
ロランはマレット男爵に社交辞令的な挨拶をして玄関扉を開けた。
「あ、お兄様。先ほどの件、くれぐれもよろしく」
「わかっている」
ひらひらと手を振る兄の姿を見送り、キッチンへ戻る。
「レディ・マイアー。先ほどの件とは? 聞いてもよろしいですか」
ソファに座るマレットの前にハーブティーとスコーンを出していると、そう尋ねられた。玄関とこのソファはけっこう離れているのに聞こえていたのか、と驚きつつ答える。
「あ……、ええ。じつは来週、仮面舞踏会に行くことになったんです」
「へえ、そうですか。それは、楽しそうですね」
「いいえ、ちっとも。この髪の毛をどうにかしなくてはいけない」
「髪の毛をどうするんです?」
「べつの色に染めなくては。いまの色では……悪目立ちするので」
長い黒髪を指に絡めて、それから耳にかけた。向かいに座るマレットはとくに表情を変えずリルの髪の毛を見つめている。
「ああ、それならいい染め粉がありますよ。そうだな……。舞踏会の前日にでも、俺の屋敷に寄ってもらえませんか。髪の毛を染めて差し上げます」
「えっ、よろしいのですか? でも、ご迷惑では……」
「とんでもございません。いつもよい薬をいただいているので、ほんのお礼です」
マレットはいつもそういう丁寧な口調だ。しかし彼の表情は固く、決して怒った顔をしているわけではないがどこか社交辞令的なのだ。彼の個性なのかもしれないけれど――それがマレットの本心なのかと、正直なところ少し疑ってしまう。
(でも、失礼よね……。いつもよくしてくださるのに、そんなふうに疑うなんて)
疑心暗鬼なところがあると自覚している。リルは自己嫌悪に陥り、秘かにため息をついた。
「ああ、このハーブティー……。やはりとても落ち着く」
いっぽうのマレットは満足気に「ふうっ」と息を吐いた。ハーブティーの香りを楽しみ、スコーンをほおばっている。
そうしてリルの茶を飲んでいるときの彼は、リルが知るなかではいちばん自然体のように思えた。
「リル、あれはマレット商会の御曹司じゃないか」
「なあに、彼を知っていたの? だったら紹介する必要なんてなかったじゃない」
「いや、直接の知り合いではない。おそらく向こうも僕のことを知っていたとは思うが。まあ、きみは何年もこの森に引きこもっているから知らないのも無理はないか。彼、相当のやり手だよ。マレット商会はここ数年で急激に業績を伸ばしている。彼がマレット商会の実質的な経営権を握ってから、急に」
「へえ、そうなの」
「……リル、彼になにかされたりしていないだろうね」
ロランの声がいっそうひそまった。リルは怪訝な顔をして尋ね返す。
「なにかって、なによ」
「いや、たとえばその……なにか、性的なことだよ」
「べつになにも。週に一度ふらりとやってきて、お茶を飲んで薬を持って帰って行くわ」
「ふうん……」
「それよりもお兄様、早くお帰りになったら? カトリオーナがあなたの帰りを待っているでしょう。奥様もね」
兄の背をぐいぐいと押して玄関へ誘導する。マレットのためのハーブティーはいま蒸らしているところだ。
「あ、ああ……。それじゃあ僕はこれで失礼するよ」
ロランはマレット男爵に社交辞令的な挨拶をして玄関扉を開けた。
「あ、お兄様。先ほどの件、くれぐれもよろしく」
「わかっている」
ひらひらと手を振る兄の姿を見送り、キッチンへ戻る。
「レディ・マイアー。先ほどの件とは? 聞いてもよろしいですか」
ソファに座るマレットの前にハーブティーとスコーンを出していると、そう尋ねられた。玄関とこのソファはけっこう離れているのに聞こえていたのか、と驚きつつ答える。
「あ……、ええ。じつは来週、仮面舞踏会に行くことになったんです」
「へえ、そうですか。それは、楽しそうですね」
「いいえ、ちっとも。この髪の毛をどうにかしなくてはいけない」
「髪の毛をどうするんです?」
「べつの色に染めなくては。いまの色では……悪目立ちするので」
長い黒髪を指に絡めて、それから耳にかけた。向かいに座るマレットはとくに表情を変えずリルの髪の毛を見つめている。
「ああ、それならいい染め粉がありますよ。そうだな……。舞踏会の前日にでも、俺の屋敷に寄ってもらえませんか。髪の毛を染めて差し上げます」
「えっ、よろしいのですか? でも、ご迷惑では……」
「とんでもございません。いつもよい薬をいただいているので、ほんのお礼です」
マレットはいつもそういう丁寧な口調だ。しかし彼の表情は固く、決して怒った顔をしているわけではないがどこか社交辞令的なのだ。彼の個性なのかもしれないけれど――それがマレットの本心なのかと、正直なところ少し疑ってしまう。
(でも、失礼よね……。いつもよくしてくださるのに、そんなふうに疑うなんて)
疑心暗鬼なところがあると自覚している。リルは自己嫌悪に陥り、秘かにため息をついた。
「ああ、このハーブティー……。やはりとても落ち着く」
いっぽうのマレットは満足気に「ふうっ」と息を吐いた。ハーブティーの香りを楽しみ、スコーンをほおばっている。
そうしてリルの茶を飲んでいるときの彼は、リルが知るなかではいちばん自然体のように思えた。