「この絵――もしよければお譲りしましょうか」
「えっ!?」
リルは絵を見るのをやめて顔を上げた。頭ひとつぶん以上は高いマレットを見上げる。
「いっ、いえ、そんな……。大切になさっている絵なのでしょう?」
あまりにも熱心に絵を見つめていたせいで妙な気を遣わせてしまったようだ。リルはあわてて言いつくろう。
「私の家に飾るよりも、マレット男爵のお屋敷にあるほうがこの絵も映えますし、ね。お心遣いだけ頂戴いたします」
マレットはなにか言いたげに口をひらいたが、
「おお、これはマレット男爵」
廊下の角から、見知らぬ中年の男性が顔を出した。マレットが微笑して頭を下げる。商談相手のようだ。こちらへ近づいてきて、彼となにやら話し始めた。
「――では、なにもない屋敷ですがどうかごゆっくりとお過ごしください」
マレットがそう言うと、中年の男は満足げな笑みを浮かべて「うむ」とうなずいた。従者をともなってリルのとなりを通り過ぎていく。
軽く会釈をすると、男は珍しいものを見るような目をして去っていった。
まるでこの家の珍品にでもなったような心地だ。
(まあ、もう慣れっこだけどね……)
好奇の目を向けられるのには慣れているが、それでもやはり少しこたえる。リルはうつむいていた。
「レディ・マイアー。髪を染める前に湯浴みをしましょう。お背中をお流しします」
「は――いっ!?」
ぼうっとしていたところに持ちかけられ、思わず「はい」と言ってしまうところだった。いや、言葉をつなげれば快諾したことになってしまうが。
「……冗談です」
あわてるリルを見つめ、マレットはどこか意地悪くほほえんでいる。
「も、もう……」
リルは憤然と鼻から息を吐き、しかし彼のおかげでなんとなく気は晴れたので、小さな声で「ありがとうございます」とつぶやいた。
リルの背中をマレットが流すというのは冗談だったが、湯浴みは本当だった。
食堂で晩餐をともにしたあと、屋敷の風呂を借りて湯浴みしたリルはゲストルームとおぼしき一室でマレットにくしで髪を梳かれていた。水気をよく吸う、厚く柔らかな布で長い黒髪を拭いてもらったあとだ。
(こんなことまでしてもらって……。本当、申し訳ない)
ネグリジェのうえに薄布を羽織って椅子に座るリルの髪の毛に、マレットはうしろから丁寧にくしを通している。
「あなたの髪の毛は本当によい色をしている。染めてしまうのがもったいない」
「あ……ありがとう、ございます」
マレットは珍しいものが好きだから、この髪色にも寛容なのだろう。髪の毛に触れられているのがどうもくすぐったい。まだ染めないのだろうかとそわそわしてしまう。
「それでは、青い染料で染めていきます。この染料は湯に濡れると溶け出しますから、お気をつけ下さい。まあ、舞踏会で湯に触れる機会などないとは思いますが」
目の前に置いてある鏡を見つめる。マレットは刷毛《はけ》のようなものでリルの髪の毛を根もとから青に変えていった。
「さて、これでよし。少し時間を置けばすぐに乾きます」
鏡に映っているのはいったい誰なのだろう。
じつは初めて髪の色を変えた。
髪を染めるのは自分を偽るようで嫌だ――そう、兄には言ったものの、鮮やかな青い髪の毛は透き通るように美しく華やかだ。
(これが、私……?)
惚けていると、紅い瞳と目が合った。リルは視線を落とす。青い髪の毛に紅い瞳はいっそう際立って、まがまがしく見えた。
「えっ!?」
リルは絵を見るのをやめて顔を上げた。頭ひとつぶん以上は高いマレットを見上げる。
「いっ、いえ、そんな……。大切になさっている絵なのでしょう?」
あまりにも熱心に絵を見つめていたせいで妙な気を遣わせてしまったようだ。リルはあわてて言いつくろう。
「私の家に飾るよりも、マレット男爵のお屋敷にあるほうがこの絵も映えますし、ね。お心遣いだけ頂戴いたします」
マレットはなにか言いたげに口をひらいたが、
「おお、これはマレット男爵」
廊下の角から、見知らぬ中年の男性が顔を出した。マレットが微笑して頭を下げる。商談相手のようだ。こちらへ近づいてきて、彼となにやら話し始めた。
「――では、なにもない屋敷ですがどうかごゆっくりとお過ごしください」
マレットがそう言うと、中年の男は満足げな笑みを浮かべて「うむ」とうなずいた。従者をともなってリルのとなりを通り過ぎていく。
軽く会釈をすると、男は珍しいものを見るような目をして去っていった。
まるでこの家の珍品にでもなったような心地だ。
(まあ、もう慣れっこだけどね……)
好奇の目を向けられるのには慣れているが、それでもやはり少しこたえる。リルはうつむいていた。
「レディ・マイアー。髪を染める前に湯浴みをしましょう。お背中をお流しします」
「は――いっ!?」
ぼうっとしていたところに持ちかけられ、思わず「はい」と言ってしまうところだった。いや、言葉をつなげれば快諾したことになってしまうが。
「……冗談です」
あわてるリルを見つめ、マレットはどこか意地悪くほほえんでいる。
「も、もう……」
リルは憤然と鼻から息を吐き、しかし彼のおかげでなんとなく気は晴れたので、小さな声で「ありがとうございます」とつぶやいた。
リルの背中をマレットが流すというのは冗談だったが、湯浴みは本当だった。
食堂で晩餐をともにしたあと、屋敷の風呂を借りて湯浴みしたリルはゲストルームとおぼしき一室でマレットにくしで髪を梳かれていた。水気をよく吸う、厚く柔らかな布で長い黒髪を拭いてもらったあとだ。
(こんなことまでしてもらって……。本当、申し訳ない)
ネグリジェのうえに薄布を羽織って椅子に座るリルの髪の毛に、マレットはうしろから丁寧にくしを通している。
「あなたの髪の毛は本当によい色をしている。染めてしまうのがもったいない」
「あ……ありがとう、ございます」
マレットは珍しいものが好きだから、この髪色にも寛容なのだろう。髪の毛に触れられているのがどうもくすぐったい。まだ染めないのだろうかとそわそわしてしまう。
「それでは、青い染料で染めていきます。この染料は湯に濡れると溶け出しますから、お気をつけ下さい。まあ、舞踏会で湯に触れる機会などないとは思いますが」
目の前に置いてある鏡を見つめる。マレットは刷毛《はけ》のようなものでリルの髪の毛を根もとから青に変えていった。
「さて、これでよし。少し時間を置けばすぐに乾きます」
鏡に映っているのはいったい誰なのだろう。
じつは初めて髪の色を変えた。
髪を染めるのは自分を偽るようで嫌だ――そう、兄には言ったものの、鮮やかな青い髪の毛は透き通るように美しく華やかだ。
(これが、私……?)
惚けていると、紅い瞳と目が合った。リルは視線を落とす。青い髪の毛に紅い瞳はいっそう際立って、まがまがしく見えた。