(森を歩くのが怖いのなら、どうしてついてくるなんて言ったんだろう?)
ふだんはリルのななめ前を歩くマレット男爵だが、今日ばかりは歩みが遅れている。森のなかはよほど物騒だと思っているのだろう。
「あっ」
前を歩いていたオーガスタスが突然、声を上げた。マレットがその声に過剰に反応してリルの背に隠れる。
「へっ!? へ、へへ、蛇じゃないですか!」
リルの背に隠れたマレットが情けない声で叫んだ。道の真ん中に、進路をふさぐように蛇がにょろにょろと体をくねらせて横たわっている。
しかしリルは道をふさぐ蛇よりもマレットが何回「へ」を言ったのかというほうが気になる。
「マレット男爵、いま何回『へ』とおっしゃいました?」
「――! そ、んなこと、わかりません」
「きゃっ!?」
急にうしろから抱きすくめられてふらつく。マレットは道を這う小さな蛇が怖いらしく、リルの体を背中から抱きしめて盾にしている。大きな図体のマレットは小柄なリルにはとうてい隠れきれない。
ふたりのそんなようすをオーガスタスは微笑したまま見つめ、近くに落ちていた小枝をかがんで拾った。
「毒のないただの蛇だよ。おーい、道を開けてくれ」
オーガスタスが小枝でトントンッと地面をたたく。驚いた蛇はすぐに茂みへと蛇行して消えていった。
「ほら、もう大丈夫。マレット男爵、リルさんが困っていますよ」
「……え」
マレットは慌てたようすで両腕を放した。リルはわずかに頬を赤くしていた。異性に抱きしめられるのに慣れていないからだ。
「リルさん、薬草が生えているのはどこですか?」
オーガスタスの言葉はどうしてか棒読みだった。彼とふたりきりのときは敬語で話さないからそんなふうに感じたのかもしれない。オーガスタスに手を引かれて歩かされる。
「そこの分かれ道を右です。あのっ、なぜそんなに急ぐのですか!」
ぐいぐいと手を引っ張られている。痛いくらいだ。なかば小走りになっていて、そうしてどんどん進んでいるから息が切れてくる。
「薬草畑を早く見たいんです」
早歩きをしていたオーガスタスが振り返ってほほえんだ。彼の笑顔がリルの脈拍をいっそう速くさせる。
彼が身につけている服は街のひとが着ている一般的なものだ。
シンプルなグレーの上着に黒いトラウザーズは正直なところとても地味。それなのに、どこか気品にあふれているように思えるのは、彼が王子だという先入観からなのだろうか。
「ふたりとも、少し速いです」
リルとオーガスタスからさほど離れていないところをマレットは大股で歩いている。彼の呼び声は、距離よりも遠く感じた。
リルは目の前を歩く白金髪の男のことしか見ていなかった。
調合薬を作るための原材料である薬草は森に自生している。屋敷の裏庭でも多少は栽培しているが、日当たりや湿度、土の成分といった環境面で、自生させておくほうがよいものもある。
リルはそれらを畑として区画し管理している。この森はマイアー公爵家の所有だから、法的な問題はない。
「これは……立派な薬草畑ですね」
感嘆の声を漏らしたのはマレット男爵だ。眼前に広がる色とりどりの薬草に視線を走らせて端から端まで眺め、あごに手を当てて感心している。
「ここで採取できるのは毛――、ええと、毛髪の健康を促進する成分が強い薬草です」
兄のロランに毛生え薬を提供しているリルはこの薬草畑におもむく機会がいちばん多い。毛生え薬――もとい、育毛剤は薬草を大量に消費しなければ作りだせない。
もっとも手間のかかる調合薬ではあるが、ロランにはいろいろな恩があるし、黙々と作業をするのは得意なのでけっして苦ではない。
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ふだんはリルのななめ前を歩くマレット男爵だが、今日ばかりは歩みが遅れている。森のなかはよほど物騒だと思っているのだろう。
「あっ」
前を歩いていたオーガスタスが突然、声を上げた。マレットがその声に過剰に反応してリルの背に隠れる。
「へっ!? へ、へへ、蛇じゃないですか!」
リルの背に隠れたマレットが情けない声で叫んだ。道の真ん中に、進路をふさぐように蛇がにょろにょろと体をくねらせて横たわっている。
しかしリルは道をふさぐ蛇よりもマレットが何回「へ」を言ったのかというほうが気になる。
「マレット男爵、いま何回『へ』とおっしゃいました?」
「――! そ、んなこと、わかりません」
「きゃっ!?」
急にうしろから抱きすくめられてふらつく。マレットは道を這う小さな蛇が怖いらしく、リルの体を背中から抱きしめて盾にしている。大きな図体のマレットは小柄なリルにはとうてい隠れきれない。
ふたりのそんなようすをオーガスタスは微笑したまま見つめ、近くに落ちていた小枝をかがんで拾った。
「毒のないただの蛇だよ。おーい、道を開けてくれ」
オーガスタスが小枝でトントンッと地面をたたく。驚いた蛇はすぐに茂みへと蛇行して消えていった。
「ほら、もう大丈夫。マレット男爵、リルさんが困っていますよ」
「……え」
マレットは慌てたようすで両腕を放した。リルはわずかに頬を赤くしていた。異性に抱きしめられるのに慣れていないからだ。
「リルさん、薬草が生えているのはどこですか?」
オーガスタスの言葉はどうしてか棒読みだった。彼とふたりきりのときは敬語で話さないからそんなふうに感じたのかもしれない。オーガスタスに手を引かれて歩かされる。
「そこの分かれ道を右です。あのっ、なぜそんなに急ぐのですか!」
ぐいぐいと手を引っ張られている。痛いくらいだ。なかば小走りになっていて、そうしてどんどん進んでいるから息が切れてくる。
「薬草畑を早く見たいんです」
早歩きをしていたオーガスタスが振り返ってほほえんだ。彼の笑顔がリルの脈拍をいっそう速くさせる。
彼が身につけている服は街のひとが着ている一般的なものだ。
シンプルなグレーの上着に黒いトラウザーズは正直なところとても地味。それなのに、どこか気品にあふれているように思えるのは、彼が王子だという先入観からなのだろうか。
「ふたりとも、少し速いです」
リルとオーガスタスからさほど離れていないところをマレットは大股で歩いている。彼の呼び声は、距離よりも遠く感じた。
リルは目の前を歩く白金髪の男のことしか見ていなかった。
調合薬を作るための原材料である薬草は森に自生している。屋敷の裏庭でも多少は栽培しているが、日当たりや湿度、土の成分といった環境面で、自生させておくほうがよいものもある。
リルはそれらを畑として区画し管理している。この森はマイアー公爵家の所有だから、法的な問題はない。
「これは……立派な薬草畑ですね」
感嘆の声を漏らしたのはマレット男爵だ。眼前に広がる色とりどりの薬草に視線を走らせて端から端まで眺め、あごに手を当てて感心している。
「ここで採取できるのは毛――、ええと、毛髪の健康を促進する成分が強い薬草です」
兄のロランに毛生え薬を提供しているリルはこの薬草畑におもむく機会がいちばん多い。毛生え薬――もとい、育毛剤は薬草を大量に消費しなければ作りだせない。
もっとも手間のかかる調合薬ではあるが、ロランにはいろいろな恩があるし、黙々と作業をするのは得意なのでけっして苦ではない。