曇天の今日、こんなふうに壁ぎわで体を覆われてはよけいに視界が悪く――暗くなる。
リル・マイアーはマレットにあごをつかまれたままなにもできずにいた。
「……俺のこと、名前で呼んでくださいませんか」
低いかすれ声で言われ、リルは首を傾げる。
(マレット男爵の名前は……たしか)
「え、と……。フランシス、様?」
「様なんて要りません。俺もあなたのことを呼び捨てにする」
オレンジ色の髪の毛が揺れて近づいてくる。
「リル」
唇が触れてしまいそうな位置だ。リルは険しい表情を浮かべてじいっと彼の瞳を見つめる。すると、マレットはリルの唇ではなく耳もとへ移ろった。
「彼に、なにかされていませんか」
「……なんのお話なのか、さっぱりわかりません」
ごまかしてしまったのは「なにか」あったからだ。平然と答えたつもりだが、マレットがどう受け止めたのかは図りかねる。
彼の頬が首すじに触れた。マレットはリルの肩口に顔をうずめている。
「あのときあなたに想いを伝えていれば――」
「……っ!!」
ちゅう、と首すじに唇を押し付けられ、リルは身の毛がよだった。
「やっ、やめて!」
リルが叫ぶのと同時に玄関扉がひらく。ざああ、と雨音が聞こえてきた。外が雨だということに気がつく。
「――ああ、やっぱりあなたでしたか」
あなたの馬車は独特なのですぐにわかりました、と付け加えて、飄々としたようすで家のなかへ入ってきたのは、ずぶ濡れの王子様。
にこにことほほえんでいる。
「それで、マレット男爵。今日はどうなさったんですか?」
マレットが小さく舌打ちをしたのを、リルは見逃さなかった。
「いえ、特に用事はありません。……失礼します」
オレンジ色の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱しながらマレットはオーガスタスとすれ違い、屋敷を出て行った。
リルはしばらく壁ぎわに立ち尽くしていたが、オーガスタスの髪の毛からぽたぽたと床に滴り落ちる水粒の音でわれに返った。
「あ……。オーガスタス、早く着替えたほうがいいわ」
「――彼となにを話していた?」
顔はいつもどおりの笑顔。けれど声音はひどく不機嫌そうだった。
「なにって……。その……あなたに、なにかされていないかって、聞かれた」
「ふうん……。それで、リルはどういうふうに答えたの?」
彼が歩くと、屋敷の床に水粒の軌跡ができた。ぽたぽたと水を滴らせながらオーガスタスはリルに近づく。
「……なんの話か、わからない――と」
「しらを切ったんだ? ……まあ、そうだね。僕はあなたに大したことはしていない。いままでは」
そっと手首をつかまれた。彼の手はずいぶんとつめたい。
「オーガスタス、体がとても冷えてる。湯に浸かったほうがいいと思う」
「ねえ、リル。体液の話なんだけど」
本当に、ひとの話を聞かない男だ。
「……その話はもういいって、言ってるでしょ」
リルが眉尻を下げていると、つかまれていた手首をぐいっと強く引っ張られた。リルは歩きながら言う。
「ちょっと、なに? ……ひゃっ!」
ぼふっ、と大きな音がしてほこりが立つ。
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リル・マイアーはマレットにあごをつかまれたままなにもできずにいた。
「……俺のこと、名前で呼んでくださいませんか」
低いかすれ声で言われ、リルは首を傾げる。
(マレット男爵の名前は……たしか)
「え、と……。フランシス、様?」
「様なんて要りません。俺もあなたのことを呼び捨てにする」
オレンジ色の髪の毛が揺れて近づいてくる。
「リル」
唇が触れてしまいそうな位置だ。リルは険しい表情を浮かべてじいっと彼の瞳を見つめる。すると、マレットはリルの唇ではなく耳もとへ移ろった。
「彼に、なにかされていませんか」
「……なんのお話なのか、さっぱりわかりません」
ごまかしてしまったのは「なにか」あったからだ。平然と答えたつもりだが、マレットがどう受け止めたのかは図りかねる。
彼の頬が首すじに触れた。マレットはリルの肩口に顔をうずめている。
「あのときあなたに想いを伝えていれば――」
「……っ!!」
ちゅう、と首すじに唇を押し付けられ、リルは身の毛がよだった。
「やっ、やめて!」
リルが叫ぶのと同時に玄関扉がひらく。ざああ、と雨音が聞こえてきた。外が雨だということに気がつく。
「――ああ、やっぱりあなたでしたか」
あなたの馬車は独特なのですぐにわかりました、と付け加えて、飄々としたようすで家のなかへ入ってきたのは、ずぶ濡れの王子様。
にこにことほほえんでいる。
「それで、マレット男爵。今日はどうなさったんですか?」
マレットが小さく舌打ちをしたのを、リルは見逃さなかった。
「いえ、特に用事はありません。……失礼します」
オレンジ色の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱しながらマレットはオーガスタスとすれ違い、屋敷を出て行った。
リルはしばらく壁ぎわに立ち尽くしていたが、オーガスタスの髪の毛からぽたぽたと床に滴り落ちる水粒の音でわれに返った。
「あ……。オーガスタス、早く着替えたほうがいいわ」
「――彼となにを話していた?」
顔はいつもどおりの笑顔。けれど声音はひどく不機嫌そうだった。
「なにって……。その……あなたに、なにかされていないかって、聞かれた」
「ふうん……。それで、リルはどういうふうに答えたの?」
彼が歩くと、屋敷の床に水粒の軌跡ができた。ぽたぽたと水を滴らせながらオーガスタスはリルに近づく。
「……なんの話か、わからない――と」
「しらを切ったんだ? ……まあ、そうだね。僕はあなたに大したことはしていない。いままでは」
そっと手首をつかまれた。彼の手はずいぶんとつめたい。
「オーガスタス、体がとても冷えてる。湯に浸かったほうがいいと思う」
「ねえ、リル。体液の話なんだけど」
本当に、ひとの話を聞かない男だ。
「……その話はもういいって、言ってるでしょ」
リルが眉尻を下げていると、つかまれていた手首をぐいっと強く引っ張られた。リルは歩きながら言う。
「ちょっと、なに? ……ひゃっ!」
ぼふっ、と大きな音がしてほこりが立つ。