リルのトランクをつかんでいたマレットの小指がぴくりと動き、しだいに力をなくして振りおりる。
「俺のことは……名で呼んでくれないのですね」
泣き出しそうな顔で眉尻を下げるマレットに、リルはどういう言葉をかければよいのかわからなかった。
「お気持ちは……すごく、嬉しいです。こんなに気にかけてくださって、申し訳ないくらい」
社交辞令的な言葉しか出てこないが、ほかに言いかたが見つからない。
マレットは「いいえ、そんな……」と消沈したようすでつぶやいた。
「……俺になにかできることはありますか?」
ああ、どこまで気が利くひとなのだろう。しかし、頼れない。彼の好意をないがしろにした自分に、そんな権利はない。
「大丈夫です。ありがとう、マレット男爵。どうぞ、お気をつけてお帰りください。私は当分この屋敷には戻らないかもしれませんので……薬の件はまた追ってご連絡いたします」
ごきげんよう、と付け加えて笑顔で手を振る。他人行儀な挨拶だとひとごとのように思った。
マレットは哀しげに笑い、馬車に乗り込んだ。動き出した馬車が角を曲がって見えなくなるまで手を振り続ける。
(……さあ、行こう)
目的地は兄であるロランの屋敷。
馬車で行けばすぐだが、徒歩では――女性の足では半日はかかる。
(あ……そうだ、白馬)
リルは前へ進みかけた足を戻して裏庭へまわり込んだ。白馬に近寄り、手綱をほどいて自由にする。
「好きなところへお行き。本当は、お兄様のところまで乗せていってもらいたいところだけど」
リルは馬を操れない。どれくらいのあいだ家を空けるかわからないから、つないだまま飲まず食わずでは白馬がかわいそうだ。
手綱がなくなっても、白馬はそこを動こうとしなかった。
リルは白馬に呼びかけようとしたが、名前がないことにいまさら気がついた。
「……さようなら、オーガス」
ほかに名前が思いつかなかった。白馬はどことなく彼に似ているから、その名がぴったりだと思った。
名付けたばかりの白馬のたてがみをすうっと撫で、リルはきびすをかえす。
(陽が落ちる前に森を出なくては)
空はどんよりと曇っているから太陽はそもそも出ていない。先ほど見た時計は正午をさしていた。日没までに森を抜けられるか、微妙なところだ。
(……やっぱり、マレット男爵に送ってもらえばよかったかしら)
楽なほうに流れた考えを、ぶんぶんと首を振って自分自身で否定する。そう考えたところすでにあとの祭りだし、これは自分なりのけじめだ。
リルは「ふんっ」と鼻息を荒くしてトランクを持ち直し、大股で森のなかを歩き始めた。
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「俺のことは……名で呼んでくれないのですね」
泣き出しそうな顔で眉尻を下げるマレットに、リルはどういう言葉をかければよいのかわからなかった。
「お気持ちは……すごく、嬉しいです。こんなに気にかけてくださって、申し訳ないくらい」
社交辞令的な言葉しか出てこないが、ほかに言いかたが見つからない。
マレットは「いいえ、そんな……」と消沈したようすでつぶやいた。
「……俺になにかできることはありますか?」
ああ、どこまで気が利くひとなのだろう。しかし、頼れない。彼の好意をないがしろにした自分に、そんな権利はない。
「大丈夫です。ありがとう、マレット男爵。どうぞ、お気をつけてお帰りください。私は当分この屋敷には戻らないかもしれませんので……薬の件はまた追ってご連絡いたします」
ごきげんよう、と付け加えて笑顔で手を振る。他人行儀な挨拶だとひとごとのように思った。
マレットは哀しげに笑い、馬車に乗り込んだ。動き出した馬車が角を曲がって見えなくなるまで手を振り続ける。
(……さあ、行こう)
目的地は兄であるロランの屋敷。
馬車で行けばすぐだが、徒歩では――女性の足では半日はかかる。
(あ……そうだ、白馬)
リルは前へ進みかけた足を戻して裏庭へまわり込んだ。白馬に近寄り、手綱をほどいて自由にする。
「好きなところへお行き。本当は、お兄様のところまで乗せていってもらいたいところだけど」
リルは馬を操れない。どれくらいのあいだ家を空けるかわからないから、つないだまま飲まず食わずでは白馬がかわいそうだ。
手綱がなくなっても、白馬はそこを動こうとしなかった。
リルは白馬に呼びかけようとしたが、名前がないことにいまさら気がついた。
「……さようなら、オーガス」
ほかに名前が思いつかなかった。白馬はどことなく彼に似ているから、その名がぴったりだと思った。
名付けたばかりの白馬のたてがみをすうっと撫で、リルはきびすをかえす。
(陽が落ちる前に森を出なくては)
空はどんよりと曇っているから太陽はそもそも出ていない。先ほど見た時計は正午をさしていた。日没までに森を抜けられるか、微妙なところだ。
(……やっぱり、マレット男爵に送ってもらえばよかったかしら)
楽なほうに流れた考えを、ぶんぶんと首を振って自分自身で否定する。そう考えたところすでにあとの祭りだし、これは自分なりのけじめだ。
リルは「ふんっ」と鼻息を荒くしてトランクを持ち直し、大股で森のなかを歩き始めた。