王子様の涙 ~甥との蜜夜~ 《 プロローグ きつねの嫁入り

 その日は曇天だった。
 悲劇を予感させる黒い雲のあいまに射す陽光はなんともアンバランスでちぐはぐだ。しかしそれを美しいと思ってしまう。理由は、わからない。
(少し遅れてしまうな、飛行機の到着時間に)
 友納 博紀《ともの ひろき》は愛車の黒いセダンを走らせていた。飛び込んでくる景色は瞬く間に変わりゆく。空港へ続く高速道路を法定外の速度で走っているからだ。
 設計事務所を立ち上げたのはいまから三年前、博紀が三十二歳のときだ。最近になってようやく事業が軌道に乗った。おかげで施主や工務店との打ち合わせが増え、忙しくなるいっぽうだ。
 そんなとき、姉が亡くなった。突然の訃報だった。姉とその夫が交通事故に遭ったと聞いたのはまだほんの数日前だ。
 両親の反対を押し切って国際結婚した姉は勘当されていた。夫となる男のほうもどうやら結婚を反対されていたようで、ふたりを祝福するものは少なかった。その当時、十七歳だった博紀も、彼女が外国で挙げた結婚式には参加していない。
 まわりに祝福されず結婚したふたりにはひとり息子がいた。博紀の両親や、姉の夫の両親も健在だが、姉の忘れ形見である彼の保護者として選ばれたのは博紀だった。
 そしていま、日本へ飛行機でやってくる彼を――会ったこともないただひとりの甥を、空港へ迎えに行っている。
 空港の駐車場はさほど混んでいなかった。
 黒い雲から時おりのぞく陽の光を受けて輝く自慢のセダンを駐車場に停め、博紀は左腕の手のひらをエレベーターに向けてかざした。腕時計が示すのは午後四時すぎ。三十分ほど遅刻してしまった。
(まあ、小さな子どもではないんだから平気か)
 甥は十八歳だ。日本の大学に転入する手続きは博紀の両親が進めている。そういった手続きの一切は引き受けるくせに、肝心の甥をこちらに押し付けてきた両親は薄情だと思う。少なからず不満はあるが、大学を卒業したら出て行くだろうから、甥と同居するといってもあと数年の話だろう。
 国際線の到着ゲート前にやってきた博紀はきょろきょろとあたりを見まわしていた。
 甥とは会ったことがないが、容姿は聞いている。金髪に碧い瞳の、絵本の王子を具現化したような少年だという。姉によく似ているらしい。身長はさほど高くなく、170センチに満たない程度。
 しかしいくら周囲を見まわしても、その特徴に合致する少年はいない。博紀は灰色のスラックスのポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかける。甥に電話をかけるのはこれが初めてだ。
『……はい』
 一瞬、電話をかける相手を間違えたのかと思った。電話口から聞こえてきた声はか細く、まるで女性のようだった。
「ああ、ええと……。メリル、か?」
 名前に「くん」をつけるべきか少しだけ迷ったが、呼び捨てにした。そのほうが呼びやすい。
『……はい』
 先ほどとまったく同じトーンで返事をされた。
 突然、両親を亡くしたのだから元気であるはずがない。暗い話しかたなのはむしろ自然かもしれない。
「きみの叔父の博紀だ。時間に遅れてしまってすまない。いま到着ゲートの前にいるんだが、きみはどこだ?」
『……どこだろう』
 博紀は眉間にしわを寄せて周囲をぐるりと見渡した。電話を耳に当てている金髪の男は見当たらない。気付かれないように配慮しながらため息をつく。
「まわりにはなにが見える? 案内看板のようなものはないか?」
 甥は外国で生まれ育ったが、家庭内では日本語を話していたらしい。したがって日本語は読み書きに至るまで堪能とのことだ。
『黒い雲と……それから、青い空が見える。ほかには……飛行機。それだけ』
 ずいぶんと抽象的な説明だ。しかしじゅうぶんだ。彼は屋外――おそらく展望デッキにいる。空港の外に出ているのならば、タクシーやバスなどの車のほうが目につくはずだ。
「すぐに向かうから、そこから動かずに待っていてくれ」
 返事はなかった。博紀は眉をひそめて通話終了のボタンをタップしてスラックスのポケットに仕舞う。それから、首もとのネクタイをゆるめてほどき、スマートフォンを入れているのと同じポケットに突っ込んだ。
 白いワイシャツに灰色のスラックス姿の博紀がエレベーターに乗り込む。
 押すのは最上階を示すボタン。展望デッキを目指す。
(どうも、とっつきにくいな)
 電話で話しただけだというのに、そんな印象を抱いてしまった。博紀は腕を組んでエレベーター内の壁にもたれかかり、まぶたを閉じて大きなため息をついた。
 ポーン、という音で顔を上げる。エレベーターから降り、展望デッキへ続く扉を押しひらく。
「……っ!」
 突如として雨が降り出した。雨粒が容赦なく頬を打つ。晩秋の雨はつめたく、強い風が吹きすさんでいるからよけいに身体を冷えさせる。
 頭のうえに右手をかざして甥の姿を探す。金色の髪をした華奢な男が、デッキの端にたたずんでいる。
「……っ、おい!」
 博紀の心臓がドクンッと跳ねた。金髪の男はフェンスから身を乗り出している。
(まさか、両親のあとを追って……!?)
 気がついたときには走り出していた。最近まで存在すら忘れていた甥だが、それでも肉親だ。目の前で命を絶たれてはたまらない。
 雨風のなかをひた走る。これほど全力疾走したのは学生のとき以来だ。
 彼の両手はフェンスをつかんでいる。そのうちのひとつに手を伸ばして握りしめる。金髪の少年が、振り返った。
 目を見ひらいたせいで雨粒がまぶたを侵して瞳を曇らせる。ぱちぱちとまばたきをして、ふたたび甥の姿をとらえた。
 ああ、話に聞いていたとおりだ。姉によく似て――美しい。
 どさりと大きな音を立ててふたりは倒れ込む。
 あまりにも勢いよく腕をつかんで引っ張ってしまい、倒れてきた彼を支えきれずコンクリートの床面に尻もちをつくはめになってしまった。
 華奢に見えたがやはり男だ。尻もちだけにとどまらず、頭と背も床面に打ちつけ、仰向けになった。
「……ヒロキ?」
 真正面から降ってきた声はあいかわらずか細い。高くも低くもない、中性的な声音だ。
 名を呼ばれた博紀は彼から目が離せなくなった。
 雨に濡れた金の髪に、透き通るような碧い瞳。姉を彷彿とさせる形のよい眉と唇、それから一直線に通った鼻すじ。
 頬を伝っているのは涙か、それとも雨なのかわからない。舐め取って味を確かめれば判別がつくのかもしれない。
(――っ! なにを考えているんだ、俺は)
 いくら美しいとはいえ、男の頬を伝っている雫を舐め取るなど言語道断だ。
「……あの」
 博紀の甥であるメリル・オードは十七歳年上の叔父に馬乗りになったまま困惑したようすで首をかしげた。
 博紀は弾かれたようにハッとまぶたを見ひらき叫ぶ。
「は、早まるな!」
「……なにが?」
「な、なにがって……。きみは、自殺しようとしていたんじゃないのか」
「はは、まさか。飛行機を眺めていただけだよ。真上から見ることなんて、そうそうないからね」
 メリルは儚げなほほえみを浮かべて博紀から離れた。腰もとからぬくもりが消える。
(……どうしたんだ、俺は)
 彼のぬくもりを名残り惜しく感じてしまって戸惑う。ここ数年は仕事が忙しく、女性と遊んでいるひまがなかったから人肌が恋しくなってしまうのかもしれない。
 大きく深呼吸をしてから博紀は言う。
「それは……すまなかった。あらためて自己紹介をしよう。きみの母親の弟で、友納博紀だ」
 立ち上がり、金髪の少年と向かい合う。いや、見おろすというほうが正しい。
 メリルは首もとが大きくあいた丸い襟のベージュのシャツに白いパーカーを羽織り、下はGパンを履いている。
「メリル・オードです。こちらこそ、まぎらわしいことをしてすみませんでした。服が、汚れちゃったね」
 上目遣いでこちらを見上げてくるメリル。長いまつ毛の下には影が落ちている。
 博紀の背中は黒く汚れていた。雨に濡れたコンクリートのうえに寝転がったのだから、汚れるのは当たり前だ。そういえば、いつの間にか雨がやみ陽が射している。
「べつにかまわない。このあとは事務所に――家に帰るだけだからな。さあ、行こう」
 博紀はメリルから視線を逸らして身をひるがえした。陽光に照らされた彼の金髪があまりにもまぶしかったからだ。
 メリルは小さな声で「はい」と返事をして、博紀のあとに続いた。

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