王子様の涙 ~甥との蜜夜~ 《 第一章 過保護な美丈夫と儚げな王子

 空港から、自宅である設計事務所に帰り着いたのは夕方だった。
 住宅街の一角に自宅をかねて建てたこのRC造の二階建てはもちろん自分で設計した。一階は事務所、二階は居住空間として使用している。
「……壁に草が生えてる」
 事務所の正面に立ったメリルがぽつりと言った。コンクリートを打ち放した壁面には植物を這わせて緑化している。
「草……まあ、たしかにそうだが。壁面を緑化することで温度上昇を軽減できるから環境にいいんだ」
「へえ……。もしかして、ここがあなたの家なの?」
「ああ、そうだ。職場をかねた自宅だ。聞いてなかったか? 俺は建築士をしている。さあ、入れ」
 ぼうっとしたようすで壁の緑を見つめるメリルの背を押す。触れた彼の背中はつめたい。
「シャワーを浴びて着替えたほうがいい。身体が冷えている」
 メリルとともに階段をのぼり、ガラス張りの玄関扉を開けようと縦長の取っ手を押す。しかし鍵がかかっていてひらかない。
(怜のやつ、もう帰ったのか)
 博紀は「ちっ」と舌打ちをして、スラックスのポケットからキーケースを取り出して事務所玄関の鍵を開けた。
 友納設計事務所で働いているのは博紀を含めて三人だけ。
 事務の女性は五時きっかりに帰る。いまは午後五時を四十分ほど過ぎているから、事務の女性がすでにいないのはうなずける。
 しかしもうひとりの所員である設計見習いの男はまだ残っていてもおかしくない。それなのに事務所には誰もおらず、玄関には鍵がかかっていた。
 設計見習いの男は博紀が不在なのをいいことに早々に切り上げて合コンにでも行っているのだろう。博紀はため息をついて扉を押しひらき、メリルをなかへとうながした。
「二階に上がってくれ。そちらが自宅で、きみが今日から住むところだ。ちなみに出入り口はいま通ってきたところしかない。さて、バスルームに案内しよう。ああそれから、階段をのぼった先は土足禁止だ。きみは外国暮らしだったからしばらくは慣れないかもしれないが、よろしく頼む」
「……あなたは思ったよりもよくしゃべる。寡黙そうなのに」
 それはいったいどういう意味だろうと考えながら階段をのぼり、靴を脱いで棚におさめた。メリルも博紀に倣っている。
 博紀はメリルにバスルームの場所と、それからタオル等の収納場所を教えた。彼がシャワーを浴びているあいだに博紀も着替える。泥に汚れたシャツは手洗いしておかなければ汚れが落ちそうにない。
 洗面台でワイシャツを洗っていると、メリルが浴室から出てきた。
「さっぱりしたか? すぐに身体を拭けよ。風邪を引く」
「うん。あ……そういえば僕、着替えを持ってない」
 博紀はワイシャツを洗う手を止めてうしろを振り返った。その先にメリルの裸体をとらえ、とっさに視線を逸らす。
(いや、いやいや……。男の裸なんだ、見てもなにも問題ない)
 彼は身体の線が細い。まるで女性のように見えたから、思わず顔を背けてしまったが、下半身にはしっかりと雄物がついている。れっきとした男だ。
「きみの荷物が届くのは明日だったな。それまでは俺の服を着るといい」
 寝室のクローゼットへ向かい、水色のワイシャツを手に取ってふたたび浴室に戻る。
「いまはとりあえずこれを」
 ワイシャツを差し出すと、メリルは博紀に背を向けてシャツを羽織った。彼の背を見つめる。
(本当に細いな。ちゃんと食ってるんだろうか……)
 肩幅は博紀の二分の一とまではいわないが、とにかく男にしては狭い。シャツのすそからのぞく太腿も、肉付きは決してよくない。
「……っ」
 メリルが振り返ったところで、博紀はぴくっと右手を動かした。
「あ、すまない。下着はさすがに買ってきたほうがいいよな」
 いまメリルが身につけているのは博紀の大きなワイシャツ一枚だ。尻のあたりまで隠れてはいるが、こんな格好で家においておくわけにはいかない。
「べつにかまわないよ、僕はこのままでも。明日には荷物が届くだろうし」
「そう、か……?」
 目のやり場に困るのはなぜだろう。いけない格好をさせているような、いたたまれない気持ちになってしまう。
 博紀は腕を組み、メリルと浴室の隅を交互にちらちらと見やる。金髪はまだ濡れている。雫がぽたりと肩に落ち、水色のシャツが濃くなる。
「ドライヤー、使っていいぞ」
 洗面台の端にかけていたドライヤーを手渡す。しかしメリルはいっこうに電源を入れようとしない。
「……まさか使いかたがわからないのか?」
「うーん……。まあ、そんなとこ。ふだんは母さんにバスタオルでよく拭いてもらってた。だから、ドライヤーは使ったことがない」
 姉はどれだけ息子を甘やかしていたのだ。呆れながらも、彼が暗に髪の毛を拭いてくれと言っているような気がした博紀はメリルが片手に持っていたバスタオルをそっとかすめ取った。
「じゃあ俺が拭いてやる」
 白いバスタオルを金髪にかぶせてガシガシと拭く。メリルは無言でこちらを見上げている。
「……ねえ、痛いよ。もっと優しくして」
「あ? ああ、悪い」
 なぜかドキリとしてしまい、博紀はそれを隠すようにバスタオルを前にずらして彼の目もとを隠した。
「……ん? そのピアス……」
 耳のうえを拭いていると、なにかが煌めいた。初めは水滴が耳たぶについているのかと思ったが、そうではなかった。雫の形をした半透明のピアスがメリルの左耳についている。
「ああ……。母さんの形見だよ。ずいぶん昔からこればかりつけていた。……叔父さんも知ってるの?」
「――おっ、おじさん!?」
 頓狂な声を上げて目を見ひらく。メリルは少しだけ唇を開け、不思議そうな表情を浮かべて首をかしげた。
「え、と……合ってるでしょ? 母さんの弟だから」
 メリルは流暢な英語で「uncle Hiroki」と付け足している。
「いや、その……叔父さんというのはやめてくれないか。これでもまだ三十五だ」
「三十五歳? それならじゅうぶんオジサンだと思うけど」
「そりゃ、十八歳のきみからしたらそうかもしれないが……。とにかくやめてくれ。博紀でいい。俺もきみのことを呼び捨てにするし」
 バスタオルを彼の頭からぬぐう。乾きやすいのか、タオルで拭いただけだというのに金髪はふわりと形よく整っていた。
「……わかった。ヒロキ」
 空港で――出会って初めて呼ばれたときとは明らかに異なる自分の名の響き。どうしてか、もっと呼んでもらいたくなる。しかしそんなことを口に出して願えるはずもない。そう願う理由がない。
 博紀はガシガシと頭をかきながらメリルに背を向ける。
「腹、減ってるだろ? 飯でも食いに行くか」
 下着を履いていない彼が外に出られるわけないのだが、博紀はそのことをすっかり失念していた。
「……ううん。お腹はあまり空いてない」
「そうか? じゃあ……コンビニにでも行って、軽いものを買ってこよう。一緒にくるか? 街の案内も兼ねて」
「せっかくだけど、今日はここで待ってるよ。何時間も飛行機に乗っていたから、少し疲れちゃった。それに、この格好だしね」
 横目で彼を見やる。メリルは長いそでをつまんで苦笑いをしている。その姿を妙にかわいらしく感じてしまい、博紀は急いで顔を前へ向けた。
「そうか、そうだな……すまない。では、待っていてくれ」
 博紀は下を向いたまま浴室を出た。それから、なにかに追われるように足早に階段を駆けおりた。

 近所のコンビニまでは徒歩五分だ。ふだんよく行くところはもう少し遠くのコンビニなのだが、今日は時間重視で最寄りへ向かった。最寄りのコンビニ弁当は、あまりうまくはない。
 終始早歩きで買い物を終え、帰路を急ぐ。メリルをひとりで家に置いておくのが心配だった。
(もっと家のなかをきちんと説明してから出てくればよかった)
 トイレの場所はわかるだろうか。ふらふらと歩きまわって階段から落ちたりしないだろうかと、頭のなかは不安ばかりだ。
 コンビニの袋を提げ、なかば走るような歩調で事務所に着いた博紀は息を荒げたまま玄関の鍵を開けた。なかにメリルがいるのだから施錠する必要はなかったのかもしれないが、このあたりはあまりひと通りがなく物騒だからそうした。
 家のなかに入った博紀はワーキングスペースを素通りして階段をのぼった。
「……メリル?」
 階段をのぼった先はすぐにリビングだ。灰色の三人がけソファに横たわる金髪の少年を見つけ、博紀はほっと息を吐いた。
 彼と離れていたのはほんの数十分。いままでひとり暮らしだったというのに、同居人の存在を瞳にとらえただけでこうも安心してしまうのはなぜだろう。考えてもわからない。
 博紀は靴を脱ぎ、忍び足でソファに近づく。コンビニの茶色い袋がカサカサと音を立てるのが耳障りだ。
(……よく寝ている)
 寝息をたしかめた博紀はコンビニの袋をローテーブルのうえに置き、寝室へ向かった。毛布を手に取ってリビングに戻り、そっとメリルの身体にかける。そのまま、ソファのかたわらにあぐらをかいて座り込んだ。
 視界に入ってきたのは自分の手。メリルに触れようとしていた自分に気がつき、博紀は肩を震わせる。
(どうしてしまったんだ、俺は)
 彼に触れたくてたまらない。透明感のある白い肌は触れたらきっとやわらかい。その感触を確かめずにはいられなくなってしまったのだ。金糸のような髪の毛も、手ざわりがいいに違いない。
 どく、どくんと胸が鳴り始める。触れるか否か、迷いながらも身体が勝手に動く。
 中指の先端が、肌に触れた。
「――っ」
 いたいけな少年の頬に触れ、息を短く吸ったり吐いたりしているさまは、はたからみれば変態だ。そういう自覚はあってもやめられない。そのままツツツと頬を撫でおろす。きめ細やかな白い肌は想像以上になめらかで、さわり心地がよかった。
 両の手のひらで覆ってしまいたい衝動に駆られるが、それではさすがに彼が起きてしまうかもしれない。自分の下半身がにわかに興奮を覚えていることに戸惑いつつ、メリルの肌にほかの指も這わせた。
 ――ピルルルル。
 突然の電子音に驚いて手を離す。音源はスラックスからだ。ポケットからスマートフォンを取り出していると、碧い瞳と目が合った。メリルは大きな二重の目をしっかりと開けている。
「あ、悪い……起こしてしまったな」
「ううん、平気。それより、早く出たら?」
 スマートフォンは鳴り続けている。博紀は「ああ」とあいづちを打って電話に出た。
「はい、友納です。いつもお世話になっております。――ああ、それでしたら……そうですね、いまから伺います。はい、ではまたのちほど。失礼いたします」
 施主からの電話だった。博紀は左手で前髪をかき上げながら言う。
「いまから現場に行ってくる。そう遅くはならないと思うが、先に飯を食っていてくれ」
「現場?」
「ああ、住宅を建築中なんだ。俺が設計した家。ここの三倍はある、豪邸だぞ」
「へえ……。すごいね、ヒロキ」
 博紀の仕事に興味があるのかないのか、よくわからないあいづちだった。メリルは身体を起こしてコンビニ袋のなかをのぞいている。
「飲み物は適当に冷蔵庫のなかから出してくれ。それじゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 事務所員以外に、こんなふうに家から送り出されたのはいつ振りだろう。所員である事務の女性はもっと淡白な言いかただし、設計見習いの男に至っては「ばいばーい」のひとことだけだ。気をつけて、とまでは言われたことがない。
「……できるだけ早く帰る」
 ぽつりと言い残して階段をくだる。椅子の背にかけっぱなしだった作業着を羽織り、ヘルメットを脇にかかえて博紀は事務所を出た。

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