クールでウブな上司の襲い方 《 第一章 01

 冬の終わり、春の兆しが道端のあちらこちらで見えはじめたある休日の昼下がり。
 築30年はゆうに超えているであろう木造平屋建住宅の前に立ち尽くし、磯貝 優樹菜《いそがい ゆきな》は「ふうっ」とため息をついた。

(おばあちゃんったら、いままでよくひとりでやってきたなぁ……)

 優樹菜の祖母は祖父が他界したあともずっとこの下宿をひとりで切り盛りしていた。庭もさることながら、この木造住宅は平屋とはいえ広い。掃除だけでも一苦労だ。
 ここ、岩代荘は優樹菜の祖母である岩代 節子《いわしろ せつこ》がひとりで営む下宿屋だ。
 台所と風呂が共同だが、そのかわり節子が一切の家事を引き受けている。家賃にそうした家事料は含まれているものの、微々たるものだと母親から聞いていた。

(さて、もの好きな住人にさっさと挨拶をしよう)

 優樹菜は玄関チャイムを鳴らして、住人が出てくるのを待った。
 いまこの下宿屋に祖母はいない。庭を掃除しているときに足を滑らせて転び、骨折してしまったのだ。前日の雨で土がぬかるみ、雨水が溜まったくぼみに足を引っかてしまったという。
 そこで、優樹菜に白羽の矢が立った。
 優樹菜の母親は健在だが父方の祖父母の介護で忙しい。そのため、この下宿屋の近くに住み、派遣会社を通して事務の仕事をしている孫の優樹菜が節子の代わりに一ヶ月間だけ家事を担うことになったのだ。
 とはいえ家事はそう大変なことではない。この岩代荘に下宿しているのはいまはたったひとりだけだ。住人が学生のときからずっと、かれこれ十年ほどここに祖母と一緒に住んでいるらしい。
 祖母が骨折して入院することになり、下宿屋の住人は自分で家事をすると申し出た。では家賃を減額しよう、という節子に対し、住人は首を縦に振らなかった。
 節子が入院しているあいだもそれまでと同じ家賃を払うとかたくなに言ったらしい。それでは申し訳が立たないということで、優樹菜が呼ばれたというしだいだ。

(なんていうか……。おばあちゃんもそのひとも、律儀よね)

 優樹菜はもう一度、玄関のチャイムを押す。
 どこか古めかしい、ポーンという音が岩代荘に響いているのがわかった。

(……留守では、ないよね?)

 住人は会社勤めのサラリーマンで、土日は休みだという。今日は日曜日だし、節子の代わりとして優樹菜がここへ住み込むことは知らせてあるはずだ。
 優樹菜は右の肩にかけていたボストンバッグを持ち直し、玄関扉の引き戸に手をかけた。かたかたっ、と扉がひらく。鍵はかかっていなかった。

「お、お邪魔しまー……っす!?」

 バフンッ、と鼻がなにかにぶつかった。跳ね返されてよろける。

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