クールでウブな上司の襲い方 《 第一章 02

 打ち付けてしまった鼻を押さえ、眉間にシワを寄せて、いったいなににぶつかってしまったのだろうと見上げてみる。
 長身の男がひとり、立っていた。見覚えのある顔だ。

「ぎゃ……!」

 いまのは、驚いて出た声ではない。心の声を漏らしそうになっただけだ。

(黒縁メガネにスウェットだなんて、ギャップ萌え! ……って、そうじゃなくて)

 優樹菜が「あのっ、そのっ」としどろもどろしていると、先に男が口をひらいた。

「あー……。きみ、事務の……磯貝さん。なんでここにいるんだ」

 抑揚のない、平坦でクールなしゃべり方はいつも通りだ。

「えっと、私、岩代節子の孫なんです。今日から一ヶ月間、ここに住み込みで働くことになって――」
「その必要はない。帰ってくれ」
「ええっ!?」

 ぴしゃっ、と引き戸が閉まった。まさに締め出されてしまった。

「そんなわけにはいきません! ねえっ、開けてください!」

 下宿屋の家事手伝いだなんて、男のひととふたりきりだなんて――と、じつはしぶしぶここへやって来たわけだが、憧れの上司である柏村 慎太郎《かしわむら しんたろう》と同居できるチャンスとなれば話はべつだ。そう簡単には引き下がれない。
 下心を隠しつつ優樹菜はドンドンッと引き戸を叩く。

「主任っ、なかに入れてください! 私、おばあちゃんとの約束をたがえたくないんです! おーねーがーいーしーまーす~っ!!」

 最後の一文は大声で言った。彼には絶対に聞こえていると思う。
 しばしの間があって、引き戸がカラカラとおそろしくゆっくりとひらいた。
 柏村主任はひどく不機嫌そうな顔でこちらを見おろしている。

「は、はは……。とにかく、家のなかに入れてください。ね?」

 押しかけ女房さながらのセリフを吐きつつ、痛いくらいの視線を感じながら玄関の土間へと足を踏み入れる。なかに入ってしまえばコッチのものだ。
 家のなか、玄関から入ってすぐの廊下はさほど散らかってはいなかった。祖母の節子が入院してまだ間もないからだろう。祖母はとてもきれい好きだ。

(家を預かるからには、きれいにしておかなくちゃね)

 ホコリがたまりそうなところをチェックしつつ長い廊下を歩いて台所へ向かう。

「……きみ、家事なんてできるのか?」

 ななめうしろからいぶかしげな声で尋ねられた。ずいぶんとぶしつけな物言いだ。自分は彼にどういうイメージを持たれているのだろうかと不安になる。

「なっ……! そりゃ、おばあちゃんほどじゃないと思うけど……そこそこ、できます。……た、たぶん」

 ここで『家事ができる』などと断言してしまったら、のちほど文句を言われても反論できないので保険をつけておく。ちょっとずるいかもしれないが、それを理由に追い出されかねない。
 来たばかりだというのに、追い出されないか心配するのも癪な話だが。

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