淫らに躍る筆先 《 01

 社会人になって三年。仕事にも自信がついてきたある晩秋のころ。帰りの電車の中で同僚に「趣味はなに?」と訊かれ、悠月 和葉《ゆづき かずは》はなにも答えることができなかった。

(趣味かぁ……)

 駅から家までの見慣れた道を歩きながら和葉は「うーん」と首をひねる。この25年間、趣味もなければこれといって他人に誇れる特技もなく平凡気ままに過ごしてきた。

(お見合いとかでよくあるよね、ご趣味は――ってやつ)

 大学を卒業してから毎日が仕事漬けの和葉は男性と縁遠い。ゆくゆくはお見合いでもしなければこのまま仕事ばかりになってしまうかもしれない。

(うん、なにか始めよう!)

 いつか来るであろうお見合いの日までに趣味のひとつくらい作っておかなければ。歩道の真ん中でそう思い立ったものの、自分がいったいなにに興味があるのかすらわからない。少々情けない。

(ピアノ……とか?)

 大人のためのピアノレッスン、と銘打った音楽教室をよく目にする。そういうところに通えば手っ取り早いのではないか。

(でもなぁ……何だかいまさらって気もするし)

 そんなことを言っていたらすべてが「いまさら」だ。和葉はふるふると首を横に振る。そうして目についたのは『受講者随時募集中』という小さな貼り紙だった。

(絵画教室、か……)

 毎日通る道だというのにいままで気が付かなかったのは、そういうことにまったく興味がなかったせいだろう。自宅からほど近い交差点の角に、そのアトリエはあった。和葉は吸い寄せられるようにアトリエへと近づく。
 三階建のビルの一階がアトリエになっているようだった。ショーウィンドウの向こうにいくつかのイーゼルと椅子が並んでいる。
 今日は休講日のようだ。窓ガラスに映り込んでいるのは自分だけ。アトリエの中にひとの姿はない。

(ええと、開講日は……金曜日の夜、ね)

 和葉は絵画教室の電話番号をスマートフォンの連絡先に入力する。電話の受付時間はもう終了しているので、明日会社で昼休みにでも掛けてみよう。
 ショーウィンドウに映っている自分の顔は、冒険に出る前の子どものようにほころんでいた。


 あくる日の昼休み、和葉は休憩室の片隅で電話を掛けた。

『――はい、藤枝商事です』

 どことなく品のある女性の声だった。和葉は電話番号を間違えたのかとも思ったが、ひとまず尋ねてみることにする。

「幸紐町三丁目の角にある絵画教室の貼り紙を見てお電話いたしました。受講希望なのですが……こちらのお電話番号でよろしかったでしょうか?」
「はい、承っております。担当者に代わりますのでそのまま少々お待ちください」

 電話の向こうからカノンが流れてくる。どうやら商社が運営している絵画教室らしい。さしずめ画材を扱う会社なのだろう。

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