あいまいな恋の自覚 ~鬼畜な御曹司と淫らな遊び~ 《 プロローグ

碓氷 諒太《うすい りょうた》は車窓から夜の街を眺めていた。時計を気にしながら早歩きをする眼鏡の女性に目が行く。
女性の黒髪は風になびき、街灯のオレンジ色に照らされて艶やかに光っていた。
視線が勝手に彼女を追う。視線だけでは追いきれなくなって、顔を傾けたときだった。

「また眼鏡女子をチェックしてるのかー? 好きだねえ」

からかいの言葉を投げかけてきた男に向かって諒太はルームミラー越しに目を合わせて眉をひそめた。

「馬鹿を言うな、そんなことはない」

「はいはい、わかってるよ。初恋は特別だもんね」

運転席で軽口を叩く従弟をにらみ、諒太はふたたび道端を盗み見た。先ほどの女性はもういない。こちらは車であちらは徒歩なのだから当たり前だが、もう少しよく見てみたいと思ったから残念だった。

「まったく、おまえは本当によけいなことしか言わないな」

従弟に話しかけられていなければもっと彼女を眺めていられたのに。諒太は脚を組みなおして八つ当たりをした。

「ひどいなー。せっかく送ってあげてるのにー。ほら、もうすぐ着くよ。俺のぶんまでシッカリよろしく」

「なんだ、おまえは来ないのか? 仮にも専務だろ」

「グループ会社のお愛想宴会なんて、社長ひとりで充分だって。俺はこれからデートだから、帰りはタクシー拾ってね。じゃ、ばいばーい」

ちっ、と舌打ちをして諒太は黒いセダンから降りた。夜の帳がおりた週末の繁華街は人であふれている。従弟の愛車である王冠のエンブレムがついた車を見送り、雑居ビルの階段をのぼる。

(まったく、面倒極まりない。特に得るものもないというのに)

国内有数の財閥系企業である碓氷グループは関連会社の重役と、それから一般社員を集めた宴会を二ヶ月に一度ひらいている。子会社の社長を務める諒太は親会社の取締役会長――実父の言いつけで、毎回、この宴会に参加しているが、業務上の有益な話はほとんどできていない。
悪いときは尻の軽そうな女に言い寄られる。また、そういう女がいなくても静かに酒をたしなむことができない。他会社の女性社員が視線を送ってくるのだ。話題は容易に思いつく。
諒太の強面について、あるいは、何を取り扱う会社の社長なのかと面白半分に話しているのだろう。なぜ女性はあれほどわかりやすくその場にいる人間の話をするのだろうと、いつも疑問に思う。
だから今夜も憂鬱だった。小一時間ほどでさっさと帰ってしまおうと決めつけて店のなかへ入る。グループ会社の社員で埋め尽くされた、貸切の居酒屋はどうも空気が悪い。そんな気がしてならない。
すでに数十人ほど社員が集まっていた。顔見知りの重役たちに向かって適当に挨拶をしながら奥へ進む。靴を脱いで座敷へ上がり込み、掘りごたつに腰をおろした。角に座りたかったのだが、先客がいたので諦めてテーブルの真ん中あたりに座った。

「碓氷社長、お久しぶりです。と言っても二ヶ月ぶりですね。ささ、どうぞ」

「ああ……」

グループ会社の筆頭であるウスイホールディングズ株式会社の社員に酌をされながら諒太は秘かにまわりを見わたした。今日は眼鏡の女性率が極めて低い。ついていない。
眼鏡の女性なら誰でもいいかというと、そうではない。黒い髪に赤い縁の眼鏡でなければ駄目だ。萌えない。

「――社長? どうかなさいましたか?」

「あ、いや。なんでもない」

眼鏡の女性を探すあまり会話がないがしろになっていた。もっとも、この親会社の社員は諒太が本社の会長の息子だと知っているから近づいてくる輩だから、どうということはないが。

「あっ、こっちこっち! 遅いぞ」

二杯目の焼酎をあおっていると、隣にいたワンコ社員が声を張り上げた。何事かと思って視線だけを向ける。諒太は焼酎のグラスを落としそうになった。

「申し訳ございません、急な仕事が入ってしまって遅くなりました」

はあはあと息を切らしながらこちらへ歩いてきたのは諒太が先ほど車窓から眺めていた人物だった。
黒い髪に赤縁眼鏡の、彼女。もっとよく見たいと願っていた女性が運よく現れた。今宵はおめがねにかなう眼鏡女子を見つけられないと思っていたから、本当にラッキーだ。
黒髪に赤縁眼鏡の女性はワンコ社員の隣に腰かけた。さっそく彼に酌をしている。

(俺も酌をしてもらいたい)

そうは思えど、名前も知らない女性に酌をしろと言えるほど諒太は積極的な性格ではなかった。

(ワンコ社員め、紹介してくれればいいものを……。気がきかないやつだ)

自分のことを棚に上げて諒太は焼酎をあおる。親会社の社員とおぼしき眼鏡の女性も、ワンコ社員にすすめられて酒を飲みはじめた。
 向かいに座る見知らぬ男と無意味な会話をしながら彼女を盗み見ていた。ハイペースで酒を飲み進めている。何も食べずに酒ばかりのようだから、少し心配だ。

「あ、僕、ちょっと失礼しますね」

ワンコ社員が席を立った。もう戻ってくるなよ、と願いつつ諒太は今日一番の眼福である眼鏡女子に目を向けた。
よく見ると顔立ちはそこそこよい。セミロングの黒い髪の毛は綺麗に切りそろえられていて清潔感があり、肌も艶やかだ。酒のせいで赤く染まった頬は色気がある。眼鏡の奥の二重まぶたはクッキリとしていて丸く、なかなか可愛らしい。

「……きみ、酌をしてくれないか」

グラスをいっきにあおり、諒太は意を決して言った。

「ふぇっ? あ、はい」

女性は妙な声を出してこちらを向いた。瞳が充血している。あらためて真正面から見ると、初恋の人にどことなく雰囲気が似ていたからドキリとした。
諒太が左手に持つグラスに焼酎が注がれていく。女性の手は少しおぼつかない。酔っ払っているからだろう。なみなみと注がれた焼酎をひとくちだけあおって彼女を横目に見る。無遠慮に諒太を見つめている。

「あの、どちらの会社の社長さんなんですか?」

グラスをテーブルの上に置くと女性のほうから話しかけられた。ワンコ社員が諒太のことを社長と呼んでいるのを彼女も聞いていたのだろう。
諒太はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出して渡す。すると眼鏡の女性もハンドバッグから名刺を出して寄越してきた。
内心はがっかりしていた。この女性も、先ほどのワンコ社員と同じなのだろうか。経歴や肩書きにしか興味がないのだろうかと。ふたたびグラスをぐいっとあおる。

「どんなお仕事の社長さんなんですか?」

「……玩具の制作販売だ」

「あっ、私もです」

グループ会社のトップシェアは玩具の制作販売だから、ここにいるほとんどの人間がそうだろう。
女性の次の言葉を憶測する。社長さんって大変なんでしょう、か。それとも『会長の息子さんなんですか』だろうか。
ウスイホールディングズ株式会社の創始者の息子だというだけで媚びや褒めの言葉をごまんと聞いてきたから本当にうんざりする。諒太はふうっとため息をついた。

「玩具って、いいですよね! 私が今の仕事をしよと思ったのはですね、小さい頃に初めて買ってもらったお気に入りの人形があったんですけど、いまだにそれを売ってるんですよ、私の会社! すごいでしょう?」

諒太は目を丸くした。まさか自慢話をされるとは思わなかった。「へえ」とだけ返して続きを促す。

「もう何十年も経つのに、壊れたところを修理してくれるんです。家電製品だって十年もしたらサポートがなくなっちゃうのに、永年サポートって本当に素晴らしいと思います! 新しいものばかりを買わせようとするんじゃないってところが、私はすごく好きで、もう絶対にこの会社に入るんだって物心ついたときから決心してたんです。それで――」

諒太は時おりグラスに口をつけながら、延々と熱く語り続ける眼鏡の女性を見つめた。こちらが相槌を打たなくても勝手に話している。悪く言えば絡み酒だが、なぜか不愉快な気持ちにはならなかった。
父親が作り上げた会社を褒められているからかもしれない。この褒め言葉は、自分ではなく父の実績に対するものだ。それが嬉しくもあった。

「あ……、すみません! べらべらとしゃべってしまって」

女性はふと言葉を切って慌てた様子で口元を押さえた。

「いや、気にするな。それより続きが気になる。それからどうしたんだ?」

女性の顔がほころんでいく。こちらが興味を示しているのが嬉しいのだろう。酒が入った色っぽさと、しかし子どものような無邪気さも感じられる。
もっと彼女を知りたい。
頬と瞳を真っ赤にして熱弁する女性の楽しそうな顔を見つめ、諒太はまぶたを細めた。

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