あいまいな恋の自覚 ~鬼畜な御曹司と淫らな遊び~ 《

目の前が真っ暗になる、という状態をいま正に体感している。
物理的にそうなっているわけではない。いまは昼間だからもし電気が消えたとしても突然、真っ暗になることはない。
だからいま視界が真っ暗だと感じるのはきっと幻覚だ。ただの、まぼろし。もしくは急な貧血。
ああ、いますぐベッドへダイブして大の字になって、頭をかきむって脚をバタバタと動かしたい。医務室へ駆け込んで実行しようかと、一瞬だけ本気で考えた。
ウスイホールディングズ株式会社の4階、広大なワンフロアオフィスの一角で、嶋谷《しまたに》 愛莉《あいり》は転籍辞令が書かれた味気ない紙切れを呆然と見おろしていた。

(この紙切れがまぼろしならいいのに)

日々めまぐるしく営業に励み、優秀な成績を上げていたのに、なぜこんなことになってしまったのだ。
なにせつい先日まで、急に空いた主任のポストに一番近いと言われていたのだ。昇進目前で浮ついていたのか、先週末に行われたグループ会社合同の飲み会では調子に乗って飲み過ぎてしまい、記憶が飛んでしまうという無様な事態。そのせいではないと思うがごくシンプルな発注ミスをおかしてしまった愛莉は子会社への転籍を命じられたのだった。
辞令はあまりにも急だった。今週の金曜日――明後日にはこのオフィスを去らねばならない。
内示すらなかった。上司は人事部にいったいどういう報告をしたのだろうと、八つ当たりに近い怒りが湧いてきて、しかし文句を言えるはずもない。
薄っぺらな紙切れを手に、愛莉はふらふらと自分のデスクへ戻った。

「嶋谷さん、どうなさったんですか? 顔色、すごく悪いですよ」

「あー……、うん。静香ちゃん、いままでありがとう」

「え? なんですか、いきなり」

隣の席から心配そうな表情を浮かべて顔をのぞき込んできたのはふたつ年下の後輩、今藤《いまふじ》 静香《しずか》だ。ダークブラウンの長い髪の毛をサイドに集めてシュシュでひとまとめにした彼女は、ロングスカートを好んで着るためか実年齢の25歳よりも少し大人びて見える。
愛莉はこうべを垂れたまま、ゆるゆると右手を顔の高さまで上げ、忌々しい紙切れを彼女に見せた。

「ええっ!? 転籍って、そんな……!」

第三営業部の視線が集まる。静香はハッとしたようすで周りをうかがい、口もとを押さえながら小さな声で「すみません」とつぶやいた。背を丸め、愛莉がかざしている辞令をまじまじと見つめている。

「明後日って……! 急すぎです!!」

憤然としたようすでうっすらと目尻に涙を浮かべる後輩の姿に愛莉は嬉しくなった。もらい泣きをしてしまいそうだ。

「嶋谷さんっ、休憩! 行きましょう」

「うん……」

愛莉はしわくちゃの紙切れをファイルに挟み込んで席を立ち、ハンドバッグから財布を取り出した。静香と連れ立ってオフィスを出る。無意識に大きなため息をついてしまって、しかし普段はそんなものつかないのだからこういうときくらい許されたい。誰に言うでもなく心のなかでつぶやく。

(発注ミスがこんなに大事になるなんて……)

ミスが発覚した後、すぐに対処した。だから取引先にもそれほど迷惑はかけていないはずだ。なのに、どうして――。
静香と並んで歩きながら悶々と考え込み、廊下の端のレストコーナーまでやってきた。円卓と椅子が3つ並ぶここは小休憩を取るにはもってこいの場所だ。幸い先客はいない。思い切り愚痴をこぼせる。

「ホットコーヒーでいいですか?」

自動販売機の前で財布の小銭を漁りながら静香が尋ねてきた。

「うん。あ、私が」

愛莉も財布のがま口を開く。なかには10円と5円しか入っていない。札入れを開こうとしていると、静香に制される。

「ちょうどいま小銭を減らしたかったところなので 大丈夫ですっ、たまには私にも出させてください。嶋谷さんにはいつもお世話になりっぱなしですからっ! さあ、座っててください」

「……ありがとう」

完全に気を遣われている。嬉しいのと、情けないのとあいまって本当に涙が出そうになった。

「おい、どうしたんだ嶋谷? なんかフラフラしてんぞ、おまえ」

「……増島くん」

自分ではしっかりと歩いているつもりだったのだが、どうやらよろけていたらしい。
愛莉と同じ第三営業部の同僚、増島《ますじま》 亮介《りょうすけ》がどこからともなくやってきて、愛莉の正面に腰をおろした。自動販売機の前でコーヒーを待つ静香に視線を向けている。

「静香ちゃん、俺もコーヒーね」

「ええっ!? いやです、ご自分でどうぞ」

「お小遣いあげるから、お願い」

増島はポケットから千円札を取り出してヒラヒラとなびかせはじめた。ポケットにそのままお金を入れる癖はまだ直っていないようだ。
静香は「そういうことなら、いいですよ」と調子よく言って紙コップに入ったホットコーヒーを丸いテーブルの上に置いた。増島の手から軍資金の千円札をもぎ取ることは忘れず、身をひるがえして三杯目のコーヒーを調達に行っている。

「で、どうした、嶋谷。男にでもフられたか?」

「……増島くんと別れてからは誰とも付き合ってないよ。仕事、忙しかったし」

「ふうん……。じゃ、また俺と付き合う?」

「いまはそれどころじゃないの」

同僚である増島とは二年ほど前に別れた。何が理由で別れたのかは正直なところ、よく覚えていない。二年前から大きな仕事を任されることが多くなって、とにかく忙しかった。同期の彼も同じ状況だったから、すれ違っていたのだと思う。自然消滅に近かったような気もする。
そもそもなぜ付き合い始めたのかもいまとなっては曖昧だ。どちらからの告白だったのか思い出してみる。たしか彼のほうからだった。
愛莉はじいっと増島を見つめた。彼は二年前とさほど見た目が変わっていない。長めの前髪に、短めの襟足。ワックスで無造作に整えられたありきたりな髪型だ。顔立ちはあまり印象に残るほうではないだろう。
別段いい男というわけでもないが不細工でもない。こんなふうに言うのは失礼かもしれないが、至って普通の男性だ。
彼と付き合っているとき、誰かに「とってもお似合いの二人」と言われたことがあるから、愛莉も普通の部類に入るのだと思う。愛莉自身も、顔立ちは可もなく不可もないと自負している。

「じゃあなんでそんなに落ち込んでるわけ」

普通を代表する男である増島の問いかけに、平凡な女の愛莉は視線を泳がせた。両ひじをテーブルについてあごを支え、そっぽを向く。

「増島さんっ、嶋谷さんはですね……、パワハラにあっているんです」

「静香ちゃん、それは……ちょっと違うような」

「こんな急な転籍、どう考えてもパワハラですっ! イジメです!!」

静香は口を尖らせながらそう言って、愛莉と増島のあいだに座った。彼女があまりにも勢いよく椅子に座ったものだから、紙コップの中身がいまもゆらゆらと波打っている。

「転籍? いつ、どこに」

「来週の月曜日から。転籍先は……えっと、どこだったかな。たぶん、子会社のどこか。地方だったらどうしよう……」

「子会社なら、たいてい都内だろ? よほど運が悪くなけりゃ、な。島流しだったら、浮き輪持って遊びに行ってやるよ」

「冗談きついよ、増島くん」

このオフィスから去らねばならないこと、ひたむきに頑張っているいまの仕事を投げ出さねばならないことのショックで転籍先のことまでは考えていなかった。
愛莉はホットコーヒーを口にして、気づかれないようにひっそりとため息をつく。増島と静香の視線が集中しているから、少しいたたまれない。

「そもそも、納得がいきません。いまからだって人事にかけあって――」

静香のその意気込みはとてもありがたいのだが、おそらく人事部へ抗議したところで状況はさらに悪化するだけだろう。本当に島流しになって辞職をうながされるのが関の山だ。

「静香ちゃん、ありがとう。でも、コーヒーのおかげて落ち着いてきた。大丈夫だよ、もしかしたらすぐに戻ってこられるかもしれないし」

「嶋谷さん……」

瞳を潤ませてこちらを見つめてくる後輩に、これ以上は悩ませまいと思って言ったことだったが、内心はまったく割り切れていなかった。

「よし、じゃあこのメンツで送別会するか。金曜の夜、空いてるか?」

今週末の夜はなにも予定がない。愛莉はすぐに「空いてる」と答えた。

「いいですね、やりましょう! とことん飲みましょうっ」

静香も予定は入っていないらしく、乗り気だ。

「じゃ、決まりな。よし、そろそろ仕事に戻るかー」

増島はコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。愛莉も同様に紙コップのコーヒーをあおる。

「ごちそうさま、静香ちゃん。私たちも戻ろっか。仕事、引き継ぎしなくちゃいけないしね」

「……はい」

何か言いたげな顔だった。愛莉は曖昧にほほえみながら、テーブルの上に置かれた空の紙コップを寄せ集めて重ね、自動販売機の脇のゴミ箱に捨てた。

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