般若部長の飼い猫 《 第二話  遅れた近隣挨拶

入社してしばらくは実家から通勤していた理沙だが、通勤時間が惜しくなり、会社からほど近いマンションを借りて住み始めたのはまだ一週間前の話だ。

(あー、今日も般若にミッチリしごかれて、疲れたわ)

週末の夜、理沙は2LDKのマンションでワインをあおりながら寛いでいた。
ひとりで住むには広いが、安らぎの場所は広いに越したことはないと思い切り、このマンションを契約した。
両親からの家賃援助があるのは言うまでもない。

(部長って、顔は悪くないのに表情がないせいで暗く見えるのよね……。ああもう、思い出したくないのにっ)

部長のことを考えていたらイライラしてお酒が進んでしまった。

(やばい、飲み過ぎたかも……)

理沙は夜風に当たるべくフラフラとベランダに出た。すると、右隣りから「にゃぁー」と可愛い鳴き声が聞こえてきた。

(あ、まただ……。そういえば、となりのひとにはまだ挨拶してなかったわ)

このマンションに引っ越してきたとき、角部屋の106号室だけはタイミングが悪く不在だった。しかしいまは、猫の鳴き声とともに男性のささやき声もかすかに聞こえたから、きっと在宅だろう。
理沙はあらかじめ買っておいた近隣挨拶用のタオルが入った紙袋を持って106号室の呼び鈴を押した。

「はい……」

出てきたのは理沙がお酒を飲み過ぎる原因を作った人物だった。

「ぶっ、部長……!?」

「時任……何でお前が俺の家を知ってるんだ」

帰宅して間もないのか、部長はスーツの上着を脱いだだけの格好だ。表情も、やはり会社にいるときと変わらない。ただ、髪型は少し乱れている。

「何でって……私、最近このマンションに引っ越してきたんです。……となりの105号室に。……コレ、ご挨拶の品です」

紙袋を渡しながら、最悪だ、と頭のなかだけで悪態をついた。
ストレス源がとなりにいると思ったら、くつろげる場所も何もあったもんじゃない。
やっぱり実家に戻ろうかとまで考えて始めていたら、また「にゃぁ~」と鳴き声が聞こえた。
理沙はふと思いつき、笑みをこぼす。にっくき般若の弱みを見つけてしまったかもしれない、と。

「部長、猫を飼ってますよね」

「……飼っていない」

「嘘! もう何度も鳴き声を聞いてるんだから! ちょっと失礼します」

「おい、勝手に入るな」

部長の制止を振り切って奥へ入ると、リビングの中央に小さな三毛猫を見つけた。

「このマンションは動物厳禁ですよ。部長はいつも言ってますよね、社の風紀を乱すような格好をするな、秩序を重んじろって」

理沙は勝ち誇って部長を見上げる。とうの彼はというと、顔色はそのままでため息を吐き、猫を抱き上げた。

「……時任、可愛いと思わないか?」

そして子猫を無理やり理沙に抱かせる。にゃっ、とひと鳴きして、猫は理沙の胸に頭をこすりつけてきた。

「きららが懐くなんて、珍しい。時任、お前は気に入られたみたいだぞ」

「そうなんですか? ……っていうかこの猫、きららって名前なんですか!?」

部長のことだからゴロウとかそんな名前を付けているのかと思ったら、意外と可愛らしい名だ。
きららはペロペロと理沙の指を舐め始める。やだ、本当に可愛い……って、違う違う!

「っ、部長! そういうことじゃなくてですね、このマンションはペット不可だから……」

「土砂降りの雨の日に、鳴いていたんだ。ダンボールに入れられて。ここから追い出したら、保健所で殺処分されるかもしれない」

部長は淡々とそうつぶやいて、きららを理沙の腕からそっと奪った。そして玄関のほうへ歩いていく。
ちょ、ちょっと待ってよ……!

「……あぁ、もう! わかりました、わかりましたよ。管理人さんには黙っておきます。でも、バレても知りませんよっ」

せっかく弱みを握れると思ったのに、あんなことを言われてはたまらない。理沙が身をひるがえして部屋を出ようとしていると、台所に山積みになっているものが目についた。

「……部長、もしかして夜ご飯はアレだけなんですか」

「最近はトンコツ味が気に入っている」

「まさか、毎日……?」

「そうだが」

部長は涼しい顔で子猫と戯れている。
部長が独身なのは知っていたけれど、まさか夜ご飯がカップラーメンだけだなんて、不摂生にもほどがある。

「部長が無表情で口が悪いのは、カルシウムが足りてないからですよ!」

「……酷い言われようだな」

理沙は自分の部屋へ戻り、冷蔵庫から鍋を取り出しコンロにかけた。
温まったシチューを皿によそって、ふたたび106号室のチャイムを押す。今度は愛猫きららを抱えて出てきた部長に理沙は言う。

「コレ、残り物ですけど食べて下さい! お皿は玄関の外にでも置いてもらえればあとで回収しますから」

部長は終始無言で、しかし素直に皿を受け取った。
酔った勢いというのは恐ろしい。なんと押しつけがましいことをしてしまったのだろうと後悔した。
けれど翌朝、皿を片手に部長が訪ねてきて、「意外と美味かった。ありがとう」と仏頂面で言われた。
珍しくというか、初めて褒められたのが嬉しくて、理沙はつい「ご飯、いつも作り過ぎて余っちゃうから……また、持って行きます」などというだいそれた約束をしてしまったのだった。

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