般若部長の飼い猫 《 第三話  食事は生活の基本

新しく住み始めた部屋の隣人が部長だったという、理沙にとっては最悪で驚愕の事実を知ってから一週間が経過した。
酔った勢いによる無駄な行動力のせいで、週に何回かは部長の部屋に夜ご飯を届けている。
味に文句を付けられたら即刻、やめてやる!と思っていたのに、部長はご丁寧に皿を洗って褒め言葉つきで返してくるから、拍子抜けしてしまった。
会社では変わらずチクチクと小言や能書きを垂れられるのに、はなはだ疑問だ。

初夏にしては少し暑いとある休日、理沙は鼻歌とともに上機嫌で泡立て器を振っていた。
料理をするのは好きだ。ほかの家事も嫌いではないけれど、料理をしているときがいちばん気分がよい。
自分の好きなものを好きなだけ作って食べられるのだから、最高だ。
家で作ると、経済的だし。服や化粧品がかさんで万年金欠の理沙にとって、自炊は必須なのだ。

(よし、できたぁ)

焼き上がったばかりのシフォンケーキに竹串を刺して、料理が成功したことを確認する。
うん、我ながらうまくできた。

「にゃぁぁー……」

窓から、きららの鳴き声が聞こえた。どうしてか、呼ばれたような気になる。

(部長に……これ、届けてあげようかな)

いやしかし、休日まで上司の顔を見るなんてとんでもない。しかも、部長が甘い物が好きかどうかもわからない。
そうしてしばらく思い悩んでいると、ピンポーン、とチャイムが鳴った。
エプロンをしたまま玄関扉を開けると、いましがた休日には見たくないと思っていたそのひとが立っていた。もれなくお皿ときららを抱いている。
黒縁の眼鏡をかけて首もとが大きく開いたVネックシャツを着てるから、いつもとは少し違って見える。 表情はいつも通りだが。

「美味そうな匂いがするな」

部長の第一声がそれだったから、

「……食べます? シフォンケーキ」

勝手に部長の部屋に上がってしまった前科があるため、自分の部屋に上げるのをしぶるわけにはいかず、彼とその愛猫を部屋へ招き入れた。
掃除したばかりだったから、よかった。
ほどよく冷めたケーキにナイフを入れて、コーヒーを添え、ソファに座る部長の前へ出した。
きららを抱いたままパクリと一口。そして、「うん、うまい」と小さくつぶやいて食べ進めている。

「お口に合ってよかったです」

理沙は部長の対角線上に座って、「きらら、おいで」と言って口笛を吹いた。
部長のひざのうえでひまをもてあましていた子猫は、嬉しそうに飛び起きて理沙の脚にすり寄る。

「あはは、やだ、くすぐったいよ、きらら」

胸に抱くとやはり頭をグリグリと押しつけてくる。

「……うら……ましいな」

「え、いまなにかおっしゃいました?」

部長がなにか言ったようだが、きららと遊ぶのに夢中でうまく聞き取れなかった。

「いや、何でもない。……そうだ、時任。これからはここで食事をしてもいいか」

「……は!?」

突然、なにを言い出すんだこの般若は。

「皿を洗って戻しにくるのは少々面倒になってきた」

「べつに洗って返さなくてもいいですよ」

「日が経つと汚れが落ちなくなるんじゃないか」

「そりゃ、まあ……そうですけど」

「では決まりだ。今晩からそうしてくれ」

部長はテーブルのうえに置いていたリモコンを手に取り、勝手にパチリとテレビをつけてくつろぎ始めた。

(ちょ、ちょっと待ってよ……私がくつろげないっての!)

もとはといえば自分の撒いた種だが、こんなことになるなんて予想もしていなかった。

「あ、あの……部長、私だっていつも夜ご飯を作ってるわけじゃないですよ? 外食するときもあるし」

「そのときは連絡してくれ。俺も不要な日はメールする」

部長はテーブルのうえの理沙のスマートフォンを手に取っていじっている。自分の連絡先を登録しているのだろう。

「あっ、勝手にひとのスマホさわらないでくださいよ! セクハラですよっ」

「このスマホはお前の身体の一部だったのか」

「なに言ってるんですか、違いますよ」

「ではセクハラとは言えないな」

部長は理沙のケータイをふたたびテーブルのうえに置いた。理沙はそれをサッと手中に収めながら言う。

「もう! この減らず口っ!」

仮にも上司に向かって言うセリフではないのだが、彼がスーツを着ていないからかつい口にしてしまった。
いっぽうの部長は怒ることもなく、「お互い様だろ」と言ってコーヒーをすすっていた。

前 へ    目 次    次 へ

前 へ    目 次    次 へ