花の香り、蜜の予感 《 01


「藤波さんっていいにおいがする」

 唐突に言われ、藤波 夏帆(ふじなみ かほ)は身を硬くするしかなかった。おまけにくんくんと匂いをかがれ、ますますフリーズする。
 外まわりを終えて銀行に帰ってきてすぐのことだった。休憩室の丸椅子に座って茶を飲んでいるところで同期入社の雑賀 翠(さいが あきら)に声をかけられ、夏帆はボッと赤面する。

「そ……う、ですか?」

 なにか答えなければと、やっとの思いでそう返した。雑賀はそのつややかな黒髪をふわりと揺らして首を傾げ、夏帆のとなりに腰を下ろす。

「前から思ってたけど、なんで敬語? 藤波さんと俺って同期だよね」
「そう、ですけど……私はみなさんに対してそうなので」
「あぁ、敬語キャラなんだね。うんうん」

 雑賀は妙に納得したようすでうなずいている。

(ああ……早くどこかへ行ってくれないかな)

 女子校に女子大、と女性ばかりの環境で育ってきた夏帆は男性が苦手だ。男性と――とくに年齢が近いと――話をするだけですぐに顔が赤くなってしまうのだ。

「……藤波さんってさ、俺のこと好き?」
「――は?」

 眉をひそめた夏帆を見て雑賀はあわてたようすで言葉を継ぐ。

「あ、いや……だって、話しかけるとすぐ赤くなるから」

 夏帆は赤い顔のまま首を横に振る。

「男性が苦手で……こうなっちゃうんです。だから、雑賀くんに好意があるわけではないです」
「うわぁ、そんなにハッキリ言われちゃうとヘコむな……」

 雑賀は視線をさまよわせながらガシガシと後頭部をかく。

「じゃ、苦手な男性を克服しよう! ってことで俺と付き合ってくれる?」
「――は!?」

 緑茶をすすっている途中でなくて本当によかった。そうでなければお茶を口から噴き出していたことだろう。
 緑茶が入った紙コップを持ったまま固まっている夏帆を尻目に雑賀は話を続ける。

「仕事で男性と接する機会だって多いんだし、そういうのは克服しておいたほうがいいんじゃない?」
「それは、そうですが……。時間と経験が解決してくれる問題だと思っておりますので」
「だから、俺がその経験になるよ。そうしたら、克服に要する時間を格段に短縮できると思わない? いや、むしろそうさせてください、お願いします!」
「えぇっ?」

 夏帆は紙コップを丸いテーブルの上にそっと置く。

「……どうしてそこまでしてくださるんですか?」

 そう尋ねても、雑賀は笑うばかりでなにも答えてくれなかった。

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