――僕が抱く劣情をきみは少しも知らない。
ブレヴェッド侯爵家にやってきたころの彼女――カタリーナ・ボードマンはあまり笑わない五歳の子どもだった。
彼女の家のことを考えれば笑顔がないのもうなずける。
カタリーナはボードマン男爵家の四女だった。あるとき、男爵家の営む事業が頓挫し、使用人はおろか四人の娘たちすら養えなくなるほど家計が逼迫した。
そこで、ボードマン男爵と以前から親交のあったブレヴェッド侯爵が男爵の幼い四女を引き取って養うことになった。初老の侯爵夫妻はもともと娘を欲していた。
しかし、カタリーナにしてみれば突然、両親や姉と引き離されて、見も知らぬ侯爵家で過ごすことになったのだ。
当時十二歳だったルイス・ブレヴェッドは、そうしてできた妹に対してどう接すればよいのか、彼女の身になってよく考えた。
「おはよう、カタリーナ」
食堂でテーブルを囲み、両親や弟――今年で七歳になるテッド――が口々にカタリーナに「おはよう」と語りかけた。そのなかで十二歳のルイスだけはなにも言わず、カタリーナのようすをうかがった。
しばしの間があって、カタリーナは小さな声で「おはようございます」と言葉を返した。その表情はとても硬い。
「カタリーナの好きな食べ物はなんだい?」
「カタリーナはよく食べるほう?」
「ねえ、カタリーナ! あとでいっしょにあそばない?」
両親と弟はほとんど同時に、カタリーナに向かってそう尋ねた。
カタリーナはなにから答えればよいのかわからないようだ。「あの、ええと」と言いながら表情を曇らせる。
「カタリーナはまだこの邸にきて間もないんだ。まだ心の整理がついていないよ。彼女が自分から話したくなるまで……自分から、遊びたくなるまで待ったほうがいい」
静かな声音でルイスが言うと、両親と弟は「そうだな」、「そうね」、「わかった!」とそれぞれ答えて食事をはじめた。
ルイスはふたたび、向かいに座る彼女に視線を据える。カタリーナはなにを言うでもなく、ルイスを見つめ返した。
カタリーナがブレヴェッド侯爵邸にやってきた日の昼下がり。
ルイスは彼女に邸内を案内することにした。
そういったことはメイドに任せてもよいのだが、朝食の席で見た彼女の硬い表情がどうも頭から離れず気がかりだったので、そうすることにした。
カタリーナがあてがわれている部屋の扉をノックすると、なかからメイドが出てきた。
「カタリーナに邸内を案内する。きみはほかの仕事をしていい」
「かしこまりました」
メイドが頭を下げて部屋を出て行くと、なかからゆっくりとした足取りでカタリーナがやってきた。
「なにをするにも、どこへ行くにもメイドがついてくるのではうっとうしいときもあるだろう。邸のなかを案内するから、きみの思うまま出歩くといい」
五歳の子どもにこんな説明をするのはいけなかっただろうかと思ったが、カタリーナは言われたことをきちんと理解したらしく「ありがとうございます」と言ってうなずいた。
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ブレヴェッド侯爵家にやってきたころの彼女――カタリーナ・ボードマンはあまり笑わない五歳の子どもだった。
彼女の家のことを考えれば笑顔がないのもうなずける。
カタリーナはボードマン男爵家の四女だった。あるとき、男爵家の営む事業が頓挫し、使用人はおろか四人の娘たちすら養えなくなるほど家計が逼迫した。
そこで、ボードマン男爵と以前から親交のあったブレヴェッド侯爵が男爵の幼い四女を引き取って養うことになった。初老の侯爵夫妻はもともと娘を欲していた。
しかし、カタリーナにしてみれば突然、両親や姉と引き離されて、見も知らぬ侯爵家で過ごすことになったのだ。
当時十二歳だったルイス・ブレヴェッドは、そうしてできた妹に対してどう接すればよいのか、彼女の身になってよく考えた。
「おはよう、カタリーナ」
食堂でテーブルを囲み、両親や弟――今年で七歳になるテッド――が口々にカタリーナに「おはよう」と語りかけた。そのなかで十二歳のルイスだけはなにも言わず、カタリーナのようすをうかがった。
しばしの間があって、カタリーナは小さな声で「おはようございます」と言葉を返した。その表情はとても硬い。
「カタリーナの好きな食べ物はなんだい?」
「カタリーナはよく食べるほう?」
「ねえ、カタリーナ! あとでいっしょにあそばない?」
両親と弟はほとんど同時に、カタリーナに向かってそう尋ねた。
カタリーナはなにから答えればよいのかわからないようだ。「あの、ええと」と言いながら表情を曇らせる。
「カタリーナはまだこの邸にきて間もないんだ。まだ心の整理がついていないよ。彼女が自分から話したくなるまで……自分から、遊びたくなるまで待ったほうがいい」
静かな声音でルイスが言うと、両親と弟は「そうだな」、「そうね」、「わかった!」とそれぞれ答えて食事をはじめた。
ルイスはふたたび、向かいに座る彼女に視線を据える。カタリーナはなにを言うでもなく、ルイスを見つめ返した。
カタリーナがブレヴェッド侯爵邸にやってきた日の昼下がり。
ルイスは彼女に邸内を案内することにした。
そういったことはメイドに任せてもよいのだが、朝食の席で見た彼女の硬い表情がどうも頭から離れず気がかりだったので、そうすることにした。
カタリーナがあてがわれている部屋の扉をノックすると、なかからメイドが出てきた。
「カタリーナに邸内を案内する。きみはほかの仕事をしていい」
「かしこまりました」
メイドが頭を下げて部屋を出て行くと、なかからゆっくりとした足取りでカタリーナがやってきた。
「なにをするにも、どこへ行くにもメイドがついてくるのではうっとうしいときもあるだろう。邸のなかを案内するから、きみの思うまま出歩くといい」
五歳の子どもにこんな説明をするのはいけなかっただろうかと思ったが、カタリーナは言われたことをきちんと理解したらしく「ありがとうございます」と言ってうなずいた。