王子様の涙 ~甥との蜜夜~ 《 第二章 拒絶反応

 施主からの電話で家を出た日、帰ったのは深夜だった。
 早く帰ると言ったものの、飯でもどうかと誘われて断りきれず何軒かハシゴした。これでもいつもより早めに帰ってきたほうだ。
 真っ暗なリビングに響くのはかすかな寝息。メリルは夕方と同じようにソファで眠っていた。
(外国からの長旅で疲れているんだ、ベッドでやすんだほうがいいに決まっている)
 オレンジ色の小さな明かりだけをつけてリビングを照らし、ソファの前に立つ。慎重に彼の身体をかかえ上げた。思っていたほど軽くはなく、安心する。メリルは痩せてはいるが、骨は太いのだろう。
 博紀はゆっくりと歩いて寝室へ入り、彼をベッドにおろした。起こしてしまわなかったようで、よかった。
「……おやすみ」
 額を撫で、金髪をすくい、顔を寄せる。メリルのまつ毛がピクンと動いたような気がして、博紀はあわてて彼から離れた。
(酔っ払っているせいだ。彼の額に口付けようとするなんて……。正気じゃない)
 博紀はふるふると頭を横に振り、寝室をあとにした。
 ――寝室には外灯の薄明かりが射していた。メリルは博紀がいなくなったのを確かめるかのように薄くまぶたを開け、しかしすぐにまた閉じた。

 吐息を感じた。誰かがすぐそばにいる、そんな気配がした。
 リビングのソファで縮こまっていた博紀のそばにはメリルがいた。まぶたを開けた博紀に、メリルは金髪を揺らし小首をかしげてほほえむ。
「Morning,Hiroki」
「……おはよう」
 顔の距離があまりにも近い。メリルはソファの座面に両手をついて博紀の顔をのぞき込んでいる。博紀はあらぬほうを向いたまま彼に話しかける。
「メリル、どうして飯を食わなかったんだ」
 昨晩、帰宅してメリルを寝室へ運んだあとに気がついたのだが、コンビニ弁当はふたつとも冷蔵庫にあった。やはりまずかったのかと思ったが、開封すらされていなかった。もとから食べる気がなかったということだ。
 博紀の問いに、メリルは表情を曇らせる。
「……食欲がないんだ」
「それでも、食べなければだめだ。きみはそもそも痩せているから、これ以上細くなったら骨になってしまうぞ」
 メリルがそっぽを向く。少々、高圧的な言いかただったかもしれない。博紀はあわてて言い繕う。
「あ、いや、その……。メリル?」
 彼の顔は翳っている。博紀はソファから身体を起こし、メリルが向いているほうに顔を近づけた。
「……食べても、戻してしまうんだ」
 つぶやきのような小さな声はとてもか細かった。
「そう、なのか」
 拒食症というやつだろうか。病院へ行く必要があるが、ひとまず水分だけでも摂らせたほうがいい。
「水は? ミネラルウォーターがあるぞ。飲めるか?」
 ソファから立ち上がり、冷蔵庫へ急ぐ。彼はいったいいつから飲まず食わずなのだろう。少なくともこの家にきてからはなにも口にしていない。冷蔵庫のなかの、飲み物のたぐいも手付かずだった。
「たぶん、無理。……だけど」
 ふらふらと倒れ込むようにメリルはソファに腰かけた。無表情で、なにを考えているのかわからない。ぼんやりとした、力のない顔つきでメリルは言う。
「……口移しなら、飲めるかもね」
 二リットルの水が入ったペットボトルを片手に持ったまま博紀は動きを止めた。グラスをつかんでいたもう片方の手が、ゆっくりと下降する。博紀はミネラルウォーターをグラスに注ぐのをやめ、彼自身がぐいっといっきにあおった。
 メリルはまぶたを閉じていた。博紀のそんな行動を目にすることなく微笑している。
「なあんて、冗談――」
 メリルの言葉が途切れる。ふたりの唇が、静かに重なった。碧い瞳が叔父の姿を至近距離でとらえる。
「っ、ん」
 うめき声はメリルのものだ。博紀は、ソファの背にもたれかかって座る彼の両肩をつかみ、片方のひざをソファに乗り上げて唇を押し付けていた。メリルの喉がごくりと動く。
「……水は、いいようだな。とにかく病院へ行こう。こういう場合はどこを受診すればいいんだろうな」
 メリルの視線から逃れるように博紀は彼に背を向けて階段へ向かった。
 どくどくと、動悸がひどい。軽蔑されたかもしれない。気持ちが悪いと思われたかもしれない。
 しかし後悔しても遅い。水分を摂らせるために仕方なくやったのだと、自分に言い聞かせ、必死に言い訳を考える。
「平気だよ、ヒロキ。いまみたいにしてくれれば、ほかのものも食べられそうだ」
 階段脇の棚に並んでいる靴に手を伸ばしたところだった。まるで時間が止まってしまったかのように博紀は身体を静止させた。
 男に――まして血のつながった甥に口付けてしまったことに、自分でも驚いて混乱している最中だ。それなのにそんなことを言われてはたまらない。どうすればよいのかわからなくなる。
 もっと激しく口付けてもいいのかと、聞きたくなる。
「……っ、メリル。俺は」
「おはようございまーす!」
 階下から能天気な声が響いてきた。博紀はがくりとこうべを垂れ、リビングの手すりから身を乗り出して一階の事務所を見おろす。
「昨日はずいぶんと早く帰ったようだな? 収穫はあったのか、怜」
「えっ? あ、ええと……。はは、収穫があったら今日は休んでますって」
 昨日はやはり合コンに行っていたらしい設計見習いの男は苦笑して自分のデスクに荷物をおろした。
「……誰?」
 うしろから声がした。いつの間にかメリルがすぐそばにきていた。一階を見おろしている。
「うちの設計見習いで、久嶋 怜《くしま れい》だ。見てのとおりいろんな意味で能天気なやつだ」
「ちょっ、所長! なんですか、それ。どういう意味? ってか、そこの金髪美人さんはなに!? 紹介してくださいよっ」
 太陽のような明るいオレンジ色に髪を染めている設計見習いの男、怜は鼻の下を伸ばしてメリルに熱視線を向けている。一階からは彼の胸のうえあたりまでしか見えないだろうから、女だと勘違いしているのだろう。たしかに、女性ものの服を着せればそう見えなくも――いや、よけいな妄想をするのはやめよう。
「……俺の甥だ。お・い。要するに男」
「ええっ!? そうなんですか。へえ……でもまあ、性別は関係ない。ちょっときみ、こっちにおいで」
 怜はメリルに向かって手招きをしている。いっぽうのメリルは無言で博紀の背に隠れた。
「おい、おい! 待て、怜。なにを言っている」
「やだな、そんなに何回も言わなくたって、所長の甥ごさんだっていうのはわかりましたから」
「いや、そういう意味ではない。怜、おまえ……」
 この男は女性にしか興味がないと思っていたのだが、そうではなかったらしい。
「俺は唯と違って心が広いんで、男でも女でも大丈夫なんです」
 オレンジ頭の男は気色悪く片目をつぶってウィンクをしている。
「――おはようございます、所長」
 いましがた話題に出た久嶋 唯《くしま ゆい》が出勤してきた。事務全般をになう女性所員だ。あいかわらず愛想のかけらもない。黒い髪の毛はうしろの低い位置でひとつに結ばれ、着ている服は今日もモノクロのパンツスーツだ。
「ああ、おはよう」
 博紀は二階から挨拶を返した。唯がこちらを見る。となりにたたずむメリルの存在にも気がついたようだが、なにも言及せずに自分のデスクへ向かった。怜とは違ってメリルにはまったく興味がなさそうだ。
 彼女が笑顔を向ける相手は女性だけなのだ。いわゆるレズビアン。だから怜は先ほど、自身の双子の妹である唯を引き合いに出して「心が広い」と言った。彼女は女性しか愛さない。
「唯くん、すまないがコーヒーを頼む」
 博紀は毎朝決まってこの台詞を唯に言う。事務所員の唯は「はい」と小さく返事をして椅子から立ち上がり、階段をのぼった。
 唯が淹れたコーヒーでトーストをほおばるのが博紀の日常――朝食だ。
「初めまして、久嶋 唯と申します。事務全般をしております」
 ふだんならすぐにコーヒーを淹れ始める唯だが今日は違った。博紀の背後に隠れているメリルに向かって頭を下げた。
「メリル・オードです。ヒロキ……叔父さんの甥です」
 メリルも唯と同じように深く頭を下げている。唯にはあらかじめ、甥を引き取ることになったと話していたから彼の存在を驚いてはいない。
「なっ、なんか俺だけのけ者じゃね!? まぜてよ~」
 怜が階段を駆け上がってくる。
「うるさい、おまえは仕事をしていろ。どうせまた溜め込んでいるんだろう。それから、試験勉強は進んでるのか? そんなことではいつまで経っても一級に合格できないぞ」
「うっ……。まあまあ、試験まではまだ日があるし、ね?」
「実務経験が足りない、という言いわけはもう使えないんだからな」
 重い足取りで階段をのぼりきった怜を、博紀は腕組みをして見上げた。この男は図体ばかりは大きく、博紀よりも十センチほど高い。
 怜と知り合ったのは、およそ五年前だ。博紀の師である、とある建築家のもとでともに下働きをしていたころだ。当時学生アルバイトだった怜と博紀はたいしてうまが合っていたというわけではないのだが、どうしてかいまも一緒にいる。
 怜が大学を卒業するのと同時にこの事務所を立ち上げた。だから彼は実務三年目。一級建築士を受験するための実務経験はすでに整っているというのに、怜は学科試験にすら合格できないでいる。
「所長はもとがいいから、凡人の苦労がわからないんですよ。大学は主席卒業だったんでしょ」
「その話と試験は無関係だろう。とにかく励むしかない」
「……試験って?」
 きょとんとしたようすでメリルが尋ねてきた。いつまでも立ち話をしているのは野暮だから、ソファに腰かける。メリルは博紀のとなりに、怜はメリルのななめ向かいだ。ひとりがけのソファに、怜は偉そうにどっかりと腰をおろした。
「一級建築士試験のことだよ! 所長と違って俺は二級の資格しか持ってないから、おもに木造の建物しか設計できないんだ」
「自慢げに言うことじゃないだろ、怜」
「まあまあ。それよりきみは、メリルっていうんだね? 俺は怜。よろしくね。ところでさ、その格好は……所長の趣味?」
 オレンジ頭をした浅黒い肌の男の視線がメリルを舐めまわす。とくに太腿を注視している。博紀はメリルが人前に出られるような格好ではないことに気がつき、とっさに彼を怜から隠そうとしてしまい、しかしすんでのところで思いとどまった。
「……そんなわけ、あるか。まだ彼の荷物が届いていないから……仕方なく、その」
 博紀がもごもごと言いよどんでいると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
「ああ、ちょうどメリルの荷物が届いたんじゃないか? 怜、出てくれ」
「はいはい」
「返事は一回だと、何度言えばわかる。早く行け」
「は~い」
 間延びした返事をしながら気だるそうに怜が立ち上がる。彼と入れ違いで、唯がコーヒーカップとトーストをローテーブルのうえに置いた。コーヒーは三人分、トーストは二人分だ。
「ありがとう、唯くん」
「いえ。またなにかございましたら、お呼びください」
 彼女は本当に礼儀正しい。くわえて仕事も正確で早い。怜とは大違いだ。静かに階段をくだる唯を見送りながら、さっそくコーヒーをすする。
「メリル、無理はしなくていいが……食べられるか?」
 博紀は階下には聞こえないよう、小さな声で言った。メリルは「うーん」とうなる。返事とも、ためらっているとも取れる。
 しばしの間があって、メリルはおそるおそるといったようすでトーストに手を伸ばした。いい具合に焼けたトーストにはジャムとマーガリンが塗られている。メリルはトーストの両端をつまみ、小さな口でぱくりとかじりついた。
「――うん、大丈夫そう。おいしいよ」
「……そうか」
 博紀はメリルを見つめるのをやめ、トーストを手に取った。
(……どうしてがっかりしているんだ、俺は)
 ふわりと香るのはイチゴとマーガリン。博紀は片手でトーストに大きくかじりつき、むしゃむしゃと咀嚼する。
 口移しなどせずとも、彼は食事が喉を通る。病院に行かずとも済んだ。
 落胆するようなことはなにひとつないというのに、博紀の気持ちは沈んでいた。
「うっ、おもぉ……っ!」
 いかついうめき声を上げて怜が二階に戻ってきた。ドスンとうるさい音を立てて、大きなスーツケースをリビングの端に置いている。
「ああ、ご苦労。メリル、食事を終えたら着替えるといい」
「ちょっと所長! もうちょっと気持ちを込めてねぎらってくださいよ。めちゃくちゃ重かったんですよ、コレ!」
「あ、ええと……ありがとうございます、怜さん。すみません、重いものを運ばせてしまって」
 そ知らぬ顔でコーヒーをすする博紀の代わりにメリルが礼を述べた。怜の表情が一変する。
「あっ、いやいや! ぜんぜん、こんなの平気だって。いやぁ、メリルはかわいくてイイね」
「そうかそうか。ではかわいいメリルのために、そのスーツケースは寝室まで運んでおいてくれ」
 博紀の新たな申しつけに、怜は不満そうな顔で「へいへい」とつぶやき、スーツケースを重そうにゴロゴロと押しながら寝室へ入っていった。

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