王子様の涙 ~甥との蜜夜~ 《 第三章 不毛な嫉妬

 トーストをすべて平らげたメリルはほどなくして寝室へ行き、着替えを済ませて戻ってきた。
 丸首の白いTシャツに、淡いピンク色のラフなハーフパンツ姿だ。
 ワイシャツ一枚を羽織っただけというあられもない格好をいつまでも怜の前でさらしているのは危険だと思ったから、彼が早々に着替えてきてくれてよかった。
「大学の転入手続きは俺の両親が進めているようだが、具体的にいつから通学できるのか聞いてるか?」
「ううん、まだなにも」
「そうか……。俺が引き継いで手続きするほうが早いかもしれないな」
 博紀は空のコーヒーカップと皿を流し台に置いた。スポンジを手にとろうとしていると、別の手にかすめ取られた。
「家のことくらいは僕がするよ。といっても、いまのところ料理はたいしてできないから掃除とか洗濯が中心になっちゃうと思うけど」
 メリルは黄色いスポンジを右手に持ってほほえんでいる。
「所長~! 現場、行きますよ~!!」
 事務所スペースから馬鹿でかい声が響いてきた。博紀もそれに負けない大声で「すぐに行く」と答える。
「では、メリル。できる範囲でかまわないからな。よろしく頼む」
 メリルはかすかにほほえみ、スポンジを持っていないほうの手を振った。

「所長、どうしたんですか? そわそわしちゃって」
 怜が運転するミニバンの助手席に座った博紀は落ち着かないようすで窓の外を眺めていた。博紀と長年の付き合いである怜は彼のそういう変化に思いのほか聡い。
「……メリルのことが心配でな」
「心配ってそんな……いったいなにが? 事務所には唯もいるんだし、なんも心配いらないじゃないですか。ずいぶんとメリルに入れ込んでますね」
「あいつは両親を亡くしたばかりなんだ。食事をとるのもやっとという調子だし……。階段から落ちたりしないか心配だ」
 怜は前を向いたまま「はは」と笑う。博紀は横目で彼を見つめる。
「じゃあ部屋のなかに――寝室にでも閉じ込めておけばいいんじゃない?」
 冗談ぽくそう言われた。博紀は口をひらきかけ、しかしすぐに閉じた。
「……馬鹿を言うな」
 思わず「そうだな」とあいづちを打ってしまいそうになった。博紀はそれからしばらく押し黙っていた。
 信号待ちで停車した。カチカチと無機質な音が車内にこだましている。ふだんは無駄なことばかり話しかけてくる怜が、なぜかひとこともしゃべらない。
「……どうかしたのか? 黙りこくって」
「それは俺の台詞ですよ。甥っ子がかわいいのはわかるけど、ちゃんと仕事してくださいよ?」
「サボり魔のおまえにだけは言われたくないな」
 怜は「くっくっ」と声を漏らして苦笑している。信号が青になり、ふたりが乗った車は静かに走り出した。

 建築中の現場をいくつかまわり、工務店や施主のもとを訪ねたあと事務所へ戻った。時刻は午後四時すぎ。昨日、メリルを空港へ迎えに行ったのとだいたい同じ時間だ。
 事務所に入るなり、博紀は目を丸くした。
「あ、おかえりなさい」
「おかえりなさいませ」
 メリルと唯が並んで座っていた。ふたりで楽しそうに話しているのが玄関のガラス扉ごしに見えて、博紀は困惑しながら扉を開けたのだった。
「この短時間でずいぶんと仲よくなったんだな」
「へへ。唯さんにヒロキのことをいろいろと聞いてたんだ」
 ほがらかに笑っているのはメリルだけではない。唯も、どこか楽しそうにほほえんでいる。
「へえ……。唯くん、俺のことをどういうふうに説明したんだ?」
「ありのままをお伝えしました。ねえ、メリル」
 にいっとふたりでほほえむ姿は、女性どうしで秘密を共有しているような、男の入る隙がない雰囲気だ。いや、メリルは男だが。
「なにを聞いたんだ、メリル」
「んー? ナイショだよ」
 唯たちとは斜《はす》向かいの椅子の背に作業着をかけ、ヘルメットをデスク横のホックに引っかけ、博紀はふたりを見おろした。唇はへの字に曲がっている。
「……そうだ、これからメリルの歓迎会をしようと、怜と話していたんだ。なあ?」
 博紀が怜に目配せをする。
「そうそうっ、飲みに行こうぜ!」
 怜は片腕を天井に向かって一直線に上げ、居酒屋への意気込みを示している。この男は博紀のオゴリであればどこへでもついていく。
「唯くん、今晩はどうだ?」
「ええ、なにも問題ありません。メリルは?」
「もちろん、大丈夫」
 唯の問いかけに対してにこやかに答えるメリル。どうしてかその姿に苛立ちを覚える。
(俺に対する笑顔と、違う)
 博紀にはこんな顔はしない。安心しきったような、ほがらかな顔でほほえんだりしない――。
「……所長?」
 いぶかしげな声音で名を呼ばれ、顔を上げる。怜が眉をひそめている。
「あ、ああ……。では、行こうか」
 博紀は短い前髪をかき上げながら視線をさまよわせた。

 行きつけの居酒屋へは徒歩数分だ。
 住宅街のなかにぽつんと建立する和食の居酒屋は周囲になじんでいながらもそこが居酒屋であることを秘かに主張している。そんなふうに設計したのは博紀だ。
 控えめなのれんと狭い間口は一見の客を寄せ付けない雰囲気をかもし出している。施主は常連客を大切にし、礼節を重んじている。そのおかげかどうかはわからないが、店内が騒々しいということはあまりなく、落ち着いて酒を飲むことができる。
 博紀は唯に酌をしてもらい、焼酎をあおっていた。ここのところビールよりもこちらのほうがいい。それにしても、個室は掘りごたつにして正解だった。長時間、飲んでいても足が痛くなることはない。店主にしてみれば、掃除をするのが大変だとは思うが。
 飲み始めてすでに2時間以上が経過していた。
「あーあ、メリルったら……うたた寝しちゃって」
 向かいに座るメリルが船を漕ぎ始めた。彼のとなりに座っている怜に、もたれかかるようにしてこっくりこっくりと頭を揺らしている。
「起こせ、怜」
「ええー? ひどいなあ、所長は。眠らせてあげればいいじゃん。大人のつまらない話に2時間も付き合ってくれたんだから」
 怜はそう言ってメリルの頭を撫でた。胃のあたりがちくっと痛む。飲みすぎだろうか。
「メリル! こういう席で居眠りをするのはマナー違反だぞ」
 居酒屋といってもここは静かだから、あまり大きな声は出せない。博紀はトントンッと指でテーブルを叩いた。メリルが目を覚ます。
「ふぁっ? ……あ、ごめんなさい」
 碧い瞳をぱちくりとさせている。その頬は朱に染まっていた。うつむいて、わずかに口を尖らせている。すねているのだろうか。
「……そろそろおひらきにするか」
 猪口の焼酎を飲み干し、博紀は席を立った。

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