王子様の涙 ~甥との蜜夜~ 《 第四章 独占コテージパイ

 唯と怜にそれぞれタクシー代を渡した博紀はメリルとともに歩いて自宅へ帰っていた。
 晩秋の夜風は適度につめたく、歩いているだけで酔いがさめる。
 居酒屋でメリルはそれほどがつがつとは食べていなかったが、思ったよりも口にしていたので安心した。
「きみの好物はなんだ? 今度、作ってやる」
「えっ? なに言ってるの、ヒロキは料理がぜんぜんダメなんでしょ」
「……唯くんから聞いたのか?」
 博紀のすぐ脇を車が通った。ふたりの髪の毛が揺れる。
「うん。ほかにもいろいろと聞いたよ。けっこう潔癖なところがあるとか、コーヒーは濃すぎると飲めないとか」
「まったく、しょうもないことを」
「僕が料理を頑張るよ。コンビニ弁当と外食ばっかりじゃ、ねえ」
 金の髪の毛がさらりと風になびく。流し目というのだろうか、とにかくメリルはどこか妖艶に博紀を見つめている。
「料理くらい、俺だってやればできる……はずだ。それで、なにが好物なんだ」
 やけを起こしている自覚はあった。しかしどうしても彼の好物を知りたい。ほかにも知りたいことはたくさんあるが、あまり一度に質問していては気味悪がられるかもしれないのでこれでも抑えている。
「……コテージパイが食べたい」
 小さなつぶやき声は、となりを通り過ぎる車の走行音にかき消されてしまいそうだった。なんとかメリルの言葉を聞き取った博紀は詳しく尋ねる。
「コテージパイ? 菓子なのか?」
「違うよ、甘くはない。じゃがいもとか、ひき肉とかが入ってる家庭料理」
「へえ……」
 料理好きの唯ならば作りかたを知っているかもしれない。博紀はスマートフォンを取り出してメールを打つ。
「なにしてるの? ヒロキ」
「そのコテージパイとやらの作りかたを知っているか、唯くんにメールで聞いてみようかと」
「ああ、唯さんの手料理か。それはぜひ食べてみたい」
 スマートフォンをタップする博紀の手が止まる。送信すべきかどうか迷ってしまう。彼が唯の手料理をおいしそうにほおばっているところを想像すると虫唾が走った。
「……いや、彼女も今日は疲れているだろう。メールを送るのはやめる」
「ええっ? じゃあ明日、僕から直接リクエストしようっと」
「あいにく明日は休日だ。所員は誰もこない」
「そうなの? 寂しいな」
 ななめ向かいの角を曲がってやってきた車のライトがメリルを照らす。彼の左耳についているピアスがきらりと一瞬だけ光った。
「――俺がいるじゃないか」
 車のタイヤがアスファルトをこする音がした。博紀の声を妨げるようにこだまする。
「……え?」
 メリルは立ち止まって博紀を見上げた。
 押し黙って唇を噛み締める博紀。このさまは、薄暗い街灯のもとでは彼の目にどういうふうに映っているのだろうか。
「……なんでもない」
 もとよりメリルに聞こえるように言ったつもりはない。博紀は「早く帰ろう」とつぶやき、先ほどよりも速い歩調で家路を急いだ。

「ヒロキは寝室で寝たら? 僕はソファでいいから。ほら、僕のほうが小さいし」
「いや、俺はここでかまわない」
「でも……。そこじゃ、よく眠れないんじゃない?」
 居酒屋から戻った博紀とメリルはリビングで押し問答をしていた。誰がどこで眠るのかをもめている。
「いいから、きみは寝室で寝ろ。俺はまだ仕事があるから」
 しっしっ、と追い払うように彼に向けて手を振る。
「……なにそれ。じゃあ飲みになんて行かずに先に仕事を片付ければよかったのに」
 邪険にされたと思ったのか、メリルはそう言い捨てて寝室へ駆けていってしまった。
(もう少し言いかたを考えるべきだった)
 しゅんとうなだれて、博紀は脱いだばかりの靴をふたたび履いて階段をおりた。
 そっと玄関扉を開けてすぐに施錠し、夜の街を歩く。行き先は、24時間営業のスーパーマーケットだ。
 道すがら、コテージパイのレシピをスマートフォンで検索する。
(じゃがいも、ひき肉、玉ねぎとそれから……)
 ひととおり作りかたを確認する。別段、わかりにくいところは見受けられない。初心者でもなんとかなりそうだ。
 博紀はまったく料理をしないが、オーブンなどの設備だけは整っているから、問題なく作れる。あとは彼の腕しだいだ。
 眠らないスーパーマーケットでコテージパイの材料を買った博紀は音を立てないように気を配りながら事務所の玄関扉を開錠し、なかへ入った。鍵を開ける音というのは室内に気味悪く響くから困りものだ。
 忍び足で階段をのぼり靴を脱ぎ、キッチンの真上についている小さな蛍光灯をつける。買ってきた材料は冷蔵庫には入れない。すぐに使う。
(失敗する前提で材料は多めに買ってきたが、足りるだろうか)
 コテージパイのレシピが載っているサイトを表示したままスマートフォンを窓枠にたてかける。
(まあ、なんとかなるだろ)
 博紀はワイシャツのそでをひじのあたりまでまくり、買い物袋の中身をごそごそと漁った。

 夜明けを告げるのは朝陽と、それから鳥のさえずり。外壁の緑にでもたかっているのか、ちゅん、ちゅんという鳥の鳴き声がすぐそばで聞こえる。
(な、なんとかできた……)
 何度も失敗を繰り返し、ようやく形になった。夜はもうすっかり明けている。けっきょく徹夜でコテージパイを作ってしまった。今日が休みで本当によかったと思う。
「……ヒロキ?」
 鳥のさえずりに負けない美声がうしろから響く。
 メリルはきょとんとした表情でこちらを見つめている。パジャマは愛らしいピンク色だ。それほど濃い色のピンクではないので、男でも似合う。いや、彼ならばなんでも似合う。
「おはよう、メリル。どうだ、コテージパイを焼き上げたぞ」
 オーブンのなかの耐熱容器をミトンでつかみ、ダイニングテーブルへ運ぶ。あらかじめ用意しておいた鍋敷きのうえにコテージパイを置く。
 メリルはぽかんと口を半びらきにして博紀の行動を静観していた。
「もしかして、昨日言ってた『仕事』ってコテージパイ作りのこと?」
 彼は博紀、コテージパイ、それからキッチンの流しを順番に見やった。流し台はしっちゃかめっちゃか、ひどい有様だ。
「一晩中、妙な音がしてるなぁとは思ってたけど、まさかヒロキが料理をしてたなんて。……これは、片付けが大変だね」
「そ、それはあとで俺がやるからいいんだ。それよりほら、食え。温かいうちに」
「……うん」
 ぽりぽりとばつが悪そうにメリルは頬をかき、パジャマのまま席についた。
「昨晩は……その、ごめん。僕、生意気なこと言った」
「そうだったか? 忘れた」
 こんがりと焼き上がった円形のコテージパイを小皿に取り分けながら言った。徹夜したせいで頭がぼうっとしていて、本当になんのことかわからない。
 パイの切り口からは湯気が立ちのぼっている。見た目は、うまそうだ。
「いただきます」
 メリルは両手を胸の前で合わせて箸を取った。ナイフとフォークを用意するのを忘れていた。食卓には箸しかなかったから、彼はパイを箸で食べることにしたのだろう。
 いつになく緊張する。博紀はメリルの向かいの椅子に腰かけ、彼のようすをうかがっていた。
 メリルのひとくちは思ったよりも大きかった。もぐもぐと噛み締め、飲み込んでいる。
「……ヒロキ、ありがとう。お世辞にもおいしいとはいえないけど、嬉しい。不思議だな、おいしくないのにどんどん食べたくなる」
 メリルはふたたび「ありがとう」と口にしながら満面の笑みを浮かべた。まなじりには光るものが見える。
 味見をしていなかった博紀は料理が失敗していることに落胆した。しかしそれ以上に、メリルと同様に嬉しかった。だが彼と違って博紀はそれを素直に表現できない。
「いや、その……まずいのなら、無理して食べなくてもいいぞ」
「まずいとは言ってないよ。母さんが作ったみたいにおいしくはないけど、なんだろう……。味気がないから、いくらでもいけるっていうか」
 メリルはコテージパイを食べ進めている。本当に、無理をしているわけではなさそうだ。
「それより、ヒロキも食べたら? お腹すいてるんじゃない?」
「あ、ああ……」
 今度はメリルが料理を小皿に取り分けている。箸を手に取り、失敗作のコテージパイに控えめにかじりつく。ああ、本当に味がない。
「分量を間違えたんだろうか……。ケチャップかなにか、かけてみるか?」
「うーん、それくらいじゃどうにもならない感じだけど、いいかもね」
「……きみは意外と毒舌だな」
 博紀がまぶたを細める。メリルはあごを引き、上目遣いでにいっとほほえんだ。
 無味のコテージパイはふたりですべて平らげた。味がなくとも好物には変わりないらしく、メリルは博紀よりもたくさん食べていた。もしかしたら本来は大飯食らいなのかもしれない。
「徹夜で作ってくれたんでしょ? 片付けは僕がやるから、寝ていて。お願い」
 空の皿を流し台へ運ぼうとしていると、メリルに奪い取られた。
「そうか……? では」
 腹がふくれたからか眠気が襲ってきた。ソファに寝転がる。
「あ、だめだめ。寝室のほうが熟睡できるよ。洗いものをするからカチャカチャうるさいと思うし」
 腕をつかまれて強引に立たされる。そのまま背を押され、寝室に押し込まれてしまった。博紀はガシガシと後頭部をかき、ベッドにうつ伏せになった。
(……彼の、においがする)
 先ほどまでメリルが眠っていた布団。ぬくもりはさすがに残っていないが、香る。シャンプーやボディーソープのにおいだと言われればそれまでなのだが、とにかく彼がまとっているのと同じにおいがする。
 すうっと大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。それを繰り返した。
 自分がこんなにも気持ちの悪い男だとは、思っていなかった。

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