クールでウブな上司の襲い方 《 第一章 08

 『豪華な夕飯で家事力アピール作戦!』は成功したのかどうかわからないまま終わり、同居一日目の夜ということで私室の鍵を開けっぱなしにして夜這いを待つも、案の定というか、なにごともなくすがすがしい朝をむかえた。

(いや、そりゃそうだけどね。でも期待するのは自由じゃない! 甘い夢を見るのは私の自由だ……)

 ――と、誰に言いわけをするわけでもなく、古めかしい鏡台の前で身支度を整えて私室を出る。
 台所で朝食を作っていると、

「――おはよう」

 不意にうしろから声をかけられ、ちょうど味噌汁の味見をしているところだったから、噴き出しそうになってしまった。

「あっ、おっ、おはようございます、主任」

 まさか彼のほうが先に声をかけてくれるとは思っていなかったので、思いがけず嬉しくなってしまう。
 にやけ顏で柏村主任を振り返る。

(ギャッ、ギャップ……!)

 ギブアップではない、ギャップだ。柏村主任はジャケットこそまだ着ていないが、真っ白なワイシャツとそれから銀の地色に青のストライプが入ったネクタイを身につけ、濃紺のスラックスを履いていた。すべてシワひとつなく、ビシッときまっている。
 昨日のうちにスウェット姿が見慣れたのもあって、会社でおなじみとはいえよけいに萌える。
 なんのへんてつもないスーツ姿だというのに、色気があるのはなぜだろう。
 彼のなにもかもバランスよく整った立ち姿に、お玉を持ったまましばし見とれる。

「……どうした?」
「ふぉっ、お、いえ……コホンッ。すぐに朝食にしますので、少しだけお待ちいただけますか?」

 鼻血を噴く寸前だというのは伏せて取りつくろう。
 柏村主任は短く「ああ」とだけ答えて、定位置とおぼしき居間の隅に腰をおろしたのだった。


 朝食を終えて柏村主任を玄関先で見送ったあと、優樹菜は急いで後片付けをして自身も出社した。

(なんだか、新婚みたいだったなぁ……)

 エプロンをしたまま玄関先で「行ってらっしゃい」と彼に告げることができたのはこのうえなく幸せだった。
 被害妄想、あるいは極めておめでたい発想だが、独りよがりでも新婚気分を味わえたので大満足だ。

(――って、こんなんで満足してたら発展しないじゃない)

 自分自身にツッコミを入れて気持ちを入れ替える。目指すところはあくまで『恋人』だ。

(――っと、いけない、いけない。いまは勤務中なんだから)

 妄想の彼方に飛んで行ってしまいそうだった思考をもとに戻して、パソコンでの入力業務を進めていると、視界の隅に柏村主任の姿をとらえた。

「磯貝さん。これなんだけど、次の会議の人数分をコピーしておいて。いまやってる仕事が終わってからでいいから」
「は、はいっ!」

 柏村主任にコピーを頼まれるのは初めてではない。
 しかし、名前で呼びかけられたのはまぎれもなく初めてだった。
 いつもなら唐突に「コピーしておいて」だけなのだ。

(少しずつ、進展してるのかな……)

 名前を呼ばれたのはたまたまかもしれないけれど、それでも嬉しい。
 優樹菜は口もとがニヤけるのをなんとかして理性で抑えつつ、カタカタとせわしなくキーボードを叩いた。

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