淫らに躍る筆先 《 03

 倉庫に入るなりそんなふうに名を呼ばれ、和葉は目を丸くする。和葉のそんな反応を見て男性は怯んだようだった。彼の眉尻が悲しげに下がる。

「あ、ええと……覚えてないかな。昔きみの家の隣に住んでた藤枝 龍生《ふじえだ りゅうせい》です」

 ――私の家の隣?
 和葉はあらためて、目の前にいる麗しい男性を見つめる。くっきりとした二重まぶた。通った鼻すじ。ほどよい厚みの唇。つややかな黒髪は蛍光灯の光でも頭に輪を作っている。
 どこか恥ずかしそうに右の頬をぽりぽりと指でかきながら龍生は長いまつ毛を伏せる。

(……あっ)

 彼のその仕草で記憶が呼び覚まされた。幼い彼が、いまと同じように右の頬をかいている姿が重なる。

「りゅうくんだ!」

 和葉がそう言うと、龍生はとたんにパアッと表情を明るくさせた。

「よかった、思い出してもらえて」

 ほがらかにほほえむその顔も、あの頃となにも変わっていない。むしろ、なぜ一目見て気が付かなかったのだろうと疑問に思えてくる。

「和葉ちゃん、大きくなったね」

 ポン、ポン。頭に感じる重みも、相変わらず。
 ――ああ、そうだ。昔もよくこんなふうに、顔をのぞき込まれながら頭を撫でられていたっけ。

「……っ!」

 あの頃は子どもだった。でもいまは、違う。
 和葉は彼の顔が間近に迫ったことに驚き、とっさに後ずさってしまう。背中は壁にぶつかったのかと思えばそうではなく、天井まで画材が並べられた高い棚だった。
 バラバラと落ちてくる筆や絵の具が頭に当たらなかったのは、龍生が身を挺して守ってくれておかげだ。
 棚の中にあったものが落ちたあとは静寂に包まれた。妙な間《ま》だ。
 龍生に抱き込まれる恰好のまま和葉は床に散乱した筆と絵の具を見つめる。

「あ……ご、ごめんなさい」

 画材を棚から落としてしまったこと、落ちてくる画材に彼が当たってしまったことを詫びる。
 しかしそれに対して龍生はなにも答えない。和葉の後頭部にまわっていた彼の手が、ゆっくりと下へ動いて彼女の腰もとをつかむ。

「俺、は……きみのことが以前《まえ》から……」

 よくある台詞の出だし。ドラマでよく聞くフレーズ。そのあとに続くのは決まって――。

『……先生? ものすごい音がしましたけど』

 扉の外からノック音と同時に響いた声に和葉はビクッと肩を揺らして彼から飛びのいた。それから間もなくしてドアが開き、何人かの女性が怪訝な顔で部屋の中に入って来た。

「すみません、棚にぶつかってしまって」

 あわててしゃがみ込み、絵の具をかき集める。すると女性たちもまた「あら大変」と口々に言って、床に散らばった画材を拾い始めた。

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