淫らに躍る筆先 《 04

 土曜日、和葉はスマートフォンのコール音で目を覚ました。土曜日に掛かってくる電話はたいていプライベートなものだ。母親か、あるいは友人か。和葉は相手をろくに確かめもせず寝ぼけ声で「はい」と言って電話に出る。

『和葉ちゃん? 藤枝です』
「ふじえだ……」

 しばし考えたあと、和葉は耳からスマートフォンを離す。電話相手は『藤枝商事』と表示されている。昨日の昼、電話を掛けたときに連絡先として登録したばかりだ。
 いっきに目が覚めた和葉は「あ、ええと」と言いながらふたたびスマートフォンを耳に当てた。

『まだ寝てたかな。ごめんね、朝から』
「い、いいえ」

 部屋の壁掛け時計はすでに九時をまわっている。電話を掛けるのに非常識な時間帯ではない。

『絵画教室のことなんだけど……どうかな?』

 爽やかな声音で尋ねられ、和葉はつい「受講します」と即答してしまった。

『そっか、ありがとう。……それじゃあ、さっそくで申し訳ないんだけど受講の手続きに来てもらえるかな。今日か、明日にでも。場所はアトリエの上だよ』

 ――そうか。アトリエの上の階が藤枝商事のオフィスなのか。それならばここから徒歩三分ほどだ。

「はい。えっと……いまからでも大丈夫ですか?」
『うん、もちろん。迎えに行こうか』
「いえ、じつは自宅がすごく近所なんです。だから……あと10分くらいでお伺いできるかと思います」
『わかった。気をつけて来てね』

 「はい」と返事をしたあと、スマートフォンの画面に『電話終了』と表示されるまでには少し間があった。黒くなった画面に映る自分の顔がほころんでいる。いや、ニヤけている。

(急いで支度しなきゃ!)

 こんなにも心が躍るのはいつぶりだろう。和葉はベッドから飛び起きて洗面所へ向かった。途中、足がもつれて転びそうになってしまったのは起き抜けだからだ。浮足立っているわけではない――と、思いたい。
 洗面台の前に立ち、顔を洗って化粧水を塗る。口もとがほころぶのを止められない。なにがこんなに嬉しいのだろう。

(ついこのあいだまで忘れてたくせにアレだけど……私、りゅうくんのこと)

 恋心とまではいかないが、憧れのようなものを抱いていたのには違いない。だから大人になったいま、再会できてすごく嬉しい。
 和葉はふだんよりも慎重に化粧をして――いつもはもっと雑なのだ――玄関の姿見で全身をチェックしてから家を出た。
 急がずとも先ほどの電話からまだ10分は経っていない。そうわかっているのに、どうしてか早足になってしまう。
 和葉はわずかに息を弾ませて絵画教室の前に到着した。

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