淫らに躍る筆先 《 06

(あ……どうしよう。何だか緊張してきた)

 彼の肩がすぐとなりにある。和葉は両手に持ったマグカップをゆっくりと傾けて一口だけコーヒーをすすった。緊張のせいか味がよくわからない。

「りゅ――藤枝さんは、社長さんをしながら絵画教室の先生もしてるんですね」

 なにか話題を、と思い話しかけた。龍生がわずかに眉をひそめる。

「そうだけど……なに、その呼び方」

 彼の気を悪くしたのは明らかだった。

「あ、その……」

 子どものころのように「りゅうくん」と呼ぶのはためらわれる。よその会社の社長で、絵画教室の先生なのだ。子どものころと同じあだ名で呼ぶわけにはいかない。
 龍生は眉間に少しばかりのシワを寄せたままマグカップをローテーブルの上に置いた。

「名前で呼ばれたいな、昔みたいに。俺だって『和葉ちゃん』って呼んじゃってるわけだし」

 突然、彼の顔が目の前にやってきたので和葉は危うくマグカップを落としてしまうところだった。両手で持っているのでなければ確実にカップを落として割ってしまっていたことだろう。

(顔をのぞき込んでくる癖、変わってない……!)

 しかし本人にそんな文句を言えるはずもなく、和葉はうつむくしかない。それから小さな声で彼の名を呼んだ。

「……龍生、さん」

 彼の眉間のシワが瞬く間に消え失せる。

「んー……まあいいか。……うん、いいよ。それで」

 満足げにほほえみ、龍生は飲みかけのコーヒーが入ったマグカップをぐいっといっきにあおる。

「あの……私のほかにも、受講者にお電話されたことってありますか?」

 なぜそんなことを尋ねてしまったのかといえば、顔をのぞき込まれて気が動転していたせいだ。そうでなければ、いくら気になっていたからといってもほかにもっと聞き方があった。
 龍生は驚いたような顔をして、しかしすぐに眉尻を下げて頬をかきながら「えっと」と言葉をにごした。

「勧誘の電話なんて、掛けたことないよ。きみ以外には」

 真剣な顔つきでポン、と頭に触れられる。和葉はビクッとせずにはいられない。その反応に驚いたのは龍生だ。

「ごめん、俺……思いがけずきみに再会できて、舞い上がってるんだと思う」

 慌てたようすで和葉から距離を取り、龍生は右手で前髪をくしゃりとかき上げる。

「きみのこと、子どものころからずっと気になってたんだ」

 彼の頬が朱を帯びていく。恥ずかしげに視線がさまよい始める。

「受講の手続きに来てほしい、なんて……ただの口実だ」

 とうとう龍生は顔を両手で覆ってしまった。くぐもった声で「いま付き合ってるひとはいる?」と尋ねられ、和葉は「いいえ」と答える。

「今後だれかと付き合う予定は?」
「……ない、です」

 両手で顔を覆っていた龍生だが、指と指のあいだを開いて瞳をのぞかせた。

前 へ    目 次    次 へ