しかし、氷枕と着替えを持って部屋に戻ってきてくれた彼に文句が言えるはずもなく、
「じゃ、おやすみ。何かあったら電話で呼べ」
「う、うん……ありがと」
弘幸が出て行って、すっかり静かになってしまった部屋で未来は思う。
(いまさらそんなふうに気を遣われても……)
いや、あまり一緒にいて彼に風邪をうつしてはいけないし。へんなことをされては困るし。これでよかったのだと自分に言い聞かせる。
(邪念は捨ててとにかく寝よう。休日のあいだに風邪を治さなくちゃ)
週明けからは弘幸の部署に配属される予定だ。
(ヒロくんと一緒に仕事ができる)
だから、初日から欠勤なんてしたくないのだ。
未来は目を閉じる。まぶたの向こうに浮かぶのはスーツ姿の弘幸。本人がいなくても彼のこと考えてしまう。
未来はふるふると首を横に振り、ごろんと寝返りを打った。
幸い風邪は大事には至らず、週明けには熱も下がって無事に出勤することができた。
「時任さん、これ。10部ずつコピーしておいて」
弘幸に名字で呼ばれるのがまず新鮮な上に、彼に仕事を頼まれると何だか嬉しい。未来は元気よく「はいっ」と返事をしてコピー機へ急いだ。
午後からは資料整理だ。弘幸に連れられて未来は倉庫にいた。
「おまえ、具合はもう本当にいいのか?」
「はい、もうすっかりよくなりました」
「……いまは二人きりなんだから、敬語じゃなくてもいいだろ」
「二人きりだけど、会社なので」
そう、二人きり。薄暗い倉庫の中には未来と弘幸しかいない。
(……なんか、妙に緊張してきちゃったな)
妙に彼を意識してしまうというほうが正しいだろう。弘幸はスーツの上着を脱いでワイシャツの袖をまくり上げている。重い資料を棚の高いところに脚立もなしに並べていく。筋ばった腕がじつに男性的で、どぎまぎしてしまう。
「はー……やっと終わった」
未来はつぶやき、汗ばんだ額を手の甲で拭う。
「佐伯主任、このあとは――」
ちゅっ。振り向くとそこに彼の顔があって、唇が重なった。一瞬のことだった。
「……風邪は治ったんだからいいだろ」
あまり唇を動かさずにそう言って、弘幸は椅子の背に掛けていたスーツの上着を手に取り羽織る。未来はいましがた口づけられたところを押さえながら言う。今日という今日はハッキリさせなければ。心のモヤモヤがいっこうに晴れない。
「ヒロくんっ。あのっ、どういうつもりでこんなことするの!?」
「会社では敬語なんじゃなかったか?」
「そ、それはそうですけどっ! ちょっ――」
すたすたと倉庫を出て行ってしまう彼を、未来は困り顔でただ見送るしかなかった。
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「じゃ、おやすみ。何かあったら電話で呼べ」
「う、うん……ありがと」
弘幸が出て行って、すっかり静かになってしまった部屋で未来は思う。
(いまさらそんなふうに気を遣われても……)
いや、あまり一緒にいて彼に風邪をうつしてはいけないし。へんなことをされては困るし。これでよかったのだと自分に言い聞かせる。
(邪念は捨ててとにかく寝よう。休日のあいだに風邪を治さなくちゃ)
週明けからは弘幸の部署に配属される予定だ。
(ヒロくんと一緒に仕事ができる)
だから、初日から欠勤なんてしたくないのだ。
未来は目を閉じる。まぶたの向こうに浮かぶのはスーツ姿の弘幸。本人がいなくても彼のこと考えてしまう。
未来はふるふると首を横に振り、ごろんと寝返りを打った。
幸い風邪は大事には至らず、週明けには熱も下がって無事に出勤することができた。
「時任さん、これ。10部ずつコピーしておいて」
弘幸に名字で呼ばれるのがまず新鮮な上に、彼に仕事を頼まれると何だか嬉しい。未来は元気よく「はいっ」と返事をしてコピー機へ急いだ。
午後からは資料整理だ。弘幸に連れられて未来は倉庫にいた。
「おまえ、具合はもう本当にいいのか?」
「はい、もうすっかりよくなりました」
「……いまは二人きりなんだから、敬語じゃなくてもいいだろ」
「二人きりだけど、会社なので」
そう、二人きり。薄暗い倉庫の中には未来と弘幸しかいない。
(……なんか、妙に緊張してきちゃったな)
妙に彼を意識してしまうというほうが正しいだろう。弘幸はスーツの上着を脱いでワイシャツの袖をまくり上げている。重い資料を棚の高いところに脚立もなしに並べていく。筋ばった腕がじつに男性的で、どぎまぎしてしまう。
「はー……やっと終わった」
未来はつぶやき、汗ばんだ額を手の甲で拭う。
「佐伯主任、このあとは――」
ちゅっ。振り向くとそこに彼の顔があって、唇が重なった。一瞬のことだった。
「……風邪は治ったんだからいいだろ」
あまり唇を動かさずにそう言って、弘幸は椅子の背に掛けていたスーツの上着を手に取り羽織る。未来はいましがた口づけられたところを押さえながら言う。今日という今日はハッキリさせなければ。心のモヤモヤがいっこうに晴れない。
「ヒロくんっ。あのっ、どういうつもりでこんなことするの!?」
「会社では敬語なんじゃなかったか?」
「そ、それはそうですけどっ! ちょっ――」
すたすたと倉庫を出て行ってしまう彼を、未来は困り顔でただ見送るしかなかった。