甘い香りと蜜の味 《 02


「ねえ、何の話?」

 拓真は美樹のとなりの椅子に、背もたれのほうを向いて腰を下ろし、興味津々といったようすで訊いてきた。

「う……。お、大人の話」
「はぁ?」

 拓真にはけげんな顔をされたが、それ以上は追求されなかった。

「そうそう。紗耶香さん、来月結婚するんだってさ。それで、遠くに引っ越すって。今日もさっさと帰っちゃったのは、引っ越しの準備とかあるからじゃないかな」
「えっ、そうなの? じゃあこの店はどうなるの」
「どうなる、って……俺がいるし」
「でも拓真は学校があるから、一日中は店番できないじゃない」
「んー、そうなんだよね。講義がないときは店に出るつもりだけど……ずっと、ってわけにはいかないし」

 美樹と拓真はふたりして「うーん」と頭を抱えた。
 腕を組んでうなっていると、店の奥からコックコートを着た男性が出てくるのが見えた。美樹の胸がトクッと鳴る。

「美樹ちゃん、いらっしゃい」
「あ、こ、こんにちは。お邪魔してます」

 美樹がペコッと頭を下げると、彼はコック帽を脱いでほがらかに笑った。その笑顔を見るだけで歓迎されている心地になる。
 廣瀬 拓人《ひろせ たくと》、二十八歳。真っ白なコックコートにアクセントとして通っている縦の黒いラインと、そこから続く黒いエプロンは彼にとてもよく似合っている。
 拓人は五歳年上の幼なじみだ。一年ほど前、他所《よそ》でのパティシエ修行を終えてこの店に戻ってきた。跡取り息子というわけである。
 彼らの両親は拓人が家に戻ってくるなり温泉地に家を建てて、早々にご隠居生活を送っている。

「……美樹ちゃん、なにかあった?」

 拓人はテーブルの上にずらりと並んだスイーツを見て言った。

「えっ? あ、ええと……」

 困ったような笑顔になったのは美樹と拓人、ふたりともだ。
 拓人は美樹の向かいの椅子に座りながら言葉を継ぐ。

「だって美樹ちゃん、なにかあるとそうやって甘いものをどっさり買って食べるでしょ」

 彼の薄茶色の瞳がすうっと細くなる。なにもかも見透かされているような心地になってしまう。彼の言うとおりだ。一番最近のどか食いは、就職活動中に五社連続で面接に落ちたときだ。

「はい――じつは、さっき会社を辞めてきました」

 「えっ」と声を上げて驚いたのは拓真だ。

「就職したばっかなのに?」
「う……」
「……働いていればいろいろあるよね」

 拓真が責めるような口調だったからか、拓人は美樹を擁護したようだった。

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