「ああ、そうだ。南さんが結婚退職するから、ちょうど販売員の募集をかけようと思っていたところなんだ。次の職が見つかるまでのつなぎでもいいから……美樹ちゃん、どう?」
「えっ……。わ、私でいいんですか?」
「もちろん。僕らの店のケーキをこんなにたくさん食べて愛してくれてる美樹ちゃんなら、むしろ大歓迎だよ」
――ああ、どうしてこの男性《ひと》はこう、乙女心をくすぐるようなことばかり言うのだろう。
これだから、顔を合わせるたびに『好き』の度合いが増してしまう。
嬉しさと、心のなかでふくれ上がる気持ちがないまぜになって、目頭が熱くなる。
美樹は何とかして涙をこらえながら拓人に言う。
「ありがとうございますっ……。よろしくお願いします!」
自宅に戻った美樹は夕飯の席で両親に仕事のことを報告して、入浴を済ませて自室へと引っ込んだ。
(お母さんたち、驚いてたなぁ……)
それもそうだ。半年前に就職した娘が早々に会社を辞め、となりのスイーツショップに再就職することになったのだ。
「おまえがいいと思う場所で働きなさい」という父親の言葉には救われた。ふだんは寡黙な父だが、ここぞというときには欲しい言葉をくれる。
母親もまた寛大で、「それはよかったわね」と大喜びしてくれた。
(私って本当、恵まれてる。もうこれ以上のことはない)
美樹はベッドのなかに潜り込んだものの、寝付けなかった。今日だけでいろんなことがありすぎて、頭が冴えている。
ベッドから抜け出し、バルコニーへ出る。すぐ目の前はスイーツショップの二階――住居スペースがある。バルコニー同士を突き合わせる形で隣接している。
バルコニーの柵に手をついて夜空を見上げる。
今宵は満月。まばゆいけれど、いつまででも見ていたくなる美しい月だ。
ガラガラッ、と引き戸が開く音がした。その音で美樹は顔を正面に向ける。
「あ……拓人さん。こ、こんばんは」
「うん、こんばんは。なにしてるの?」
「ええと……月を見てました」
「月、か」
向かいのバルコニーにいる拓人が天を仰ぎ見る。美樹は今度は月ではなく彼に、釘付けになった。
月明かりに照らされた黒髪は、湯上がりなのかきらきらときらめいている。どんな角度から見ても彼の顔だちは均整が取れていて美しく、文句のつけようがない。性格にしてもそうだ。
(男のひとに向ける言葉じゃないけど、拓人さんは『高嶺の花』って感じなんだよね)
そういうわけで気後れして、想いを告げたことは一度もない。
失業したその日に再就職が決まっただけで幸せなのだ。
――だから、彼とどうにかなりたいなんて、望むべきではないのである。