甘い香りと蜜の味 《 09

 ――ネームプレートにくっついていた『研修中』の文字が消え、真新しい制服を着て店に出たその日に、美樹は出端《でばな》をくじかれた。


「あーっ、やっぱりここだ! 熊子《くまこ》のブログに載ってたお店!」

 土曜日。開店してすぐのことだ。
 店の外からだというのに、はっきりと聞き取れるほどの声量だった。天井まである大窓から外を見やれば、二人組の女性がスマートフォンを店にかざしていた。写真を撮っているようだった。

(……ん? あのひとたち――)

 ドクン、と胸が不穏に高鳴る。遠目なのではっきりとはわからないが、知り合いに似ている。
 彼女たちはきゃあきゃあとはしゃぎながら店のなかに入ってくる。美樹は思わず、顔を隠してしまいたくなった。

「い、いらっしゃいませ……」

 大きな声が出せなかった。挨拶は『明るく元気にはつらつと』を心がけていたのに、できなかった。

「……あら? もしかして、三枝さん?」

 ふたりの女性も、美樹のことに気がついた。
 元同僚であるふたりは美樹の顔を見るなりクスクスと笑いだした。
 ――ああ、まただ。いつもこうして笑われていた。「ほんと、三枝さんって使えないわよね」という言葉とともに、笑われていたのだ。

「奇遇ねー! こんなところで遭うなんて! もう再就職先が決まったんだ? 意外」
「うちの会社では失敗ばっかりだったものねぇ? こちらのお店には迷惑かけてなぁいー? 中途半端に放り投げていっちゃって、あのあと大変だったのよぉ。でも、三枝さんがいなくてよけいにはかどってるけどー!」
「やだ、言い過ぎよ!」

 女性たちは「あははは」とふたりして笑い合う。
 美樹はその場に立ち尽くした。手も足も、口さえも動かない。何て情けないのだろう。

(いつもどおりのことを言えばいいんだ。どうぞごゆっくりご覧になってください、って)

 それなのに、お腹に力が入らず、言葉を発することができない。
 彼女たちは相変わらず笑っている。ささやくように、小さな声で嘲笑している。

「――いらっしゃいませ」

 腹の底に響く、力強い声だった。美樹の肩がビクッと跳ねる。
 店の奥から出てきたのは濃いグレーのスーツを着た拓人だ。青年会議所《JC》の集まりにでも行くところだろうか。スラリとした長身の彼は本当に、なにを着ても似合う。
 とたんに、元同僚は口もとを押さえて拓人を見る。「なにこのイケメン!」とでも言いたげな顔だ。
 拓人はそれ以上、なにを言うでもなく美樹のとなりに立った。
 カウンターの下、女性客からは見えないところで、拓人が背をポンッと軽く叩いてくれる。「頑張れ」と言われているようだった。
 美樹はこっそりと深呼吸をして、ふたりに向かってにっこりとほほえむ。

前 へ    目 次    次 へ