甘い香りと蜜の味 《 10


「どうぞごゆっくりご覧になってください」

 落ち着いた声で、はっきりと。心臓はバクバクと鳴り響いてうるさいくらいだけれど、毅然として言った。
 ショコラ・デ・マノークの店員は使えないやつだ、などと吹聴されたくなかった。そして、 私自身少しは成長したのだと、元同僚に認められたかった。
 前の会社では、いつも慌ててばかりで――人の顔を見て話をすることすらままならなかったから。
 ふたりはショーケースのなかのケーキを選ぶふりをしてチラチラと拓人を盗み見ている。

「JCの会合に行ってくる。店番、よろしく頼むね」

 突然、拓人に耳打ちされた。このことを言うために店先に出てきたのか。
 いきなり彼の顔が近くにきたので、驚いてしまって上ずった返事になる。

「は、はいっ。……お気をつけて」
「うん」

 にっこりとほほえんで、拓人は店の奥に消えていく。

「――ちょっと三枝さん! さっきのひとはなに!?」

 拓人がいなくなってしばらくしてから、食いつかれる勢いで尋ねられた。

「あ、彼は……」

 この店のパティシエで、同時にオーナーだということをふたりに話した。
 女性たちはなにやら意味ありげに顔を見合わせたあとで、

「ケーキの説明をしていただける? 右から順番に、ぜんぶ」

 ――そうきたか。
 美樹は「はい」と返事をして、言葉に詰まることなく右から順にケーキを説明する。すべて食べたことのあるものだ。
 美樹が一通り説明を終えると、女性たちは「ほぅ」と感心したようなため息を漏らした。

「一人で店番なんて、と思ったけど……信頼されてるのね。ちょっと見直したわ」

 美樹は声もなく苦笑いを浮かべる。

(それは、ほかに任せるひとがいないからなんだけど)

 だがそれはあえて語るまい。
 美樹は彼女たちの帰り際に、「前の会社ではご迷惑をお掛けしました」と謝罪した。ふたりは「私たちは迷惑してなかった」と言ったあとで、「また来るわねー!」と調子のいいことを言って帰っていった。


(今日は何だかすごく疲れた……)

 店を閉める時間になるころには美樹は疲れ切っていた。今日に限って拓真は用事があるとかで、土曜日だというのに終日いなかったせいもある。
 大窓のロールスクリーンを引き下ろし、玄関扉の札をひっくり返して施錠する。
 それから店の奥へ行き、タイムカードを押して更衣室へ向かう。

「――あ、拓人さん。おかえりなさい」
「ん、ただいま」

 裏口の扉が開いて、拓人が入ってきた。

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