甘い香りと蜜の味 《 11


「美樹ちゃん、あれから大丈夫だった? ごめんね、もっと早く帰ってくるつもりだったんだけど」

 拓人はジャケットを脱ぎ、ネクタイを外して近くの椅子の背に掛けた。うかがわしげな視線を投げかけられる。

「ありがとうございます、何とか大丈夫でした」
「そっか……」

 安心したようすで拓人は息をつく。

「ねえ、俺の部屋でケーキでもどう? あまりもので悪いけど」
「えっ、いいんですか?」
「先に部屋に行って待ってて」

 美樹は一瞬、尻込みしたものの、「はい」と返事をして二階へ通じる階段を上る。

(店のイートインじゃなくて、拓人さんの部屋……)

 どこにいてもふたりきりなのは変わらないが、彼の部屋となるととたんに緊張感が増す。
 階段を上り、靴を脱いで下駄箱に入れ、住居スペースの廊下を歩く。拓人の部屋はいちばん奥だ。

(拓人さんの部屋にくるの……何年ぶりだろう)

 確か、高校受験のときに彼の部屋で勉強を教えてもらって以来だと思う。
 なかにはだれもいないとわかっていても、一応ノックをしてから部屋の扉を開けた。

(あ、ぜんぜん変わってない)

 いつか来たときとまったく変わっていない。よく整頓された部屋だ。
 出入り口の扉は閉めずにそのままにして、美樹はバルコニーのほうへと歩く。レースのカーテン越しに、自分の部屋を外から眺める。ちょっと妙な感じだ。
 トントントン、とだれかが階段を上る音がした。それから間もなくして、ケーキとコーヒーをトレイに載せた拓人が顔を出した。

「お待たせ」
「いえっ。ありがとうございます」

 美樹は拓人が手に持っていたトレイを受け取り、ローテーブルの上に並べた。彼が横長のソファに腰を下ろしたあとで、美樹はそのとなりにやや距離を取って座る。
 拓人のワイシャツのボタンは三つほど外れていた。いつもより彼の肌が見える部分が多くて、どぎまぎしてしまう。

(拓人さんのほうはなるべく見ないようにしよう)

 いただきます、と言ってケーキに手をつける。もぐもぐと、無言で食べ進める。

「……美樹ちゃんはすごく頑張ってるよ。えらい、えらい」

 不意にぽん、ぽんと頭を叩かれる。撫でるような手つきだった。
 朝からずっと、心の奥にしまいこんで我慢していた涙がぽろりとこぼれ落ちる。
 美樹はフォークを皿の上に置き、目尻にあふれた涙を拭いながら言う。

「こんな、だれにでも優しくしちゃだめですよっ……」

 ――勘違いしてしまいそうになる。自分は特別扱いされているのではないかと思って、これ以上のことを期待してしまう。

「だれにでも優しくなんて、してないよ」

 なにもかも包み込むような、穏やかな声。
 美樹の涙が止まる。ゆっくりと、彼のほうに顔を向ける。
 拓人はいつになく真剣な顔つきをしていた。

「こんなふうに、部屋に呼んで……ケーキを食べようなんて誘うのは、美樹ちゃんだからだ」


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