甘い香りと蜜の味 《 20


『だから、ええと……あと三十分後くらいでしたら、大丈夫だと思います』
「ん、わかった。ランニング、気をつけてね」

 電話を切り、「ふう」とため息をつく。
 彼女はスポーツが得意だっただろうか。美樹が幼いころから毎年、運動会を見に行っていたが、かけっこではいつも三番か四番あたりだったし、中学になってからもそんなふうだった。

(まあ、人の趣味にとやかく言えない。そういう俺は無趣味もいいところだ)

 仕事ばかりで、これといって趣味がない。いや、美樹の観察が趣味のうちに入るのならばそれが唯一のものだが、彼女には絶対に知られてはならない。気味悪がられるだろう。
 彼女の前では必死にいい恰好をしてきたつもりだ。欲を押さえて、情けないところは見せない。そうして大人のふりをしている。

(ああ、だめだな……)

 いま電話で話したばかりだというのに、もう彼女の声が聞きたくなってきた。
 自分が独立するまで、彼女が大人になるまで――と待って、やっと手に入れたものだから、これまで抑えていた反動からか片時も離れずそばにいたくてたまらない。

(プロポーズは早めにしよう)

 そのためにはまず家を建てる必要がある。いまのままでは手狭だ。ちょうど店の裏手が空き地なので、そこを買って増築するのも手だろう。

(家を建てて結婚しよう、なんて言ったら引かれるだろうか)

 彼女がケーキを食べなくなった理由すらわからないのにそんなことを言っては困らせるだけだから、もっとお互いを知ってから求婚するつもりだが、気ばかりが急く。しかし、急いては事を仕損じる。ここは慎重に進めなければ。
 そうしてあれこれ考えているあいだに三十分が経った。拓人は美樹に確認のメッセージを送る。すぐに返信があった。
 美樹の実家へ行くのはもはや日常茶飯事だというのに、にわかに緊張する。彼女の母親に挨拶をして二階へ上がると、階段を上りきったところで美樹と出くわした。

「あっ、ど、どうぞ! お茶、持ってきますね」

 先に部屋に入っているよううながされたので、素直にそうする。

(そういえば……美樹ちゃんの部屋に入るのはずいぶんと久しぶりだ)

 彼女が高校受験するにあたって、勉強を教えるという大義名分を掲げて美樹の部屋を訪ねたのが最後だった。

(……変わってないな)

 部屋は以前と変わらず、可愛らしいものであふれている。急いで片付けたようなあとが見られるが、それもご愛嬌だ。
 拓人は小さなソファに腰を下ろし、窓の外を見た。そのあとに壁掛け時計を見やる。何だか落ち着かない。そわそわする。

(そうか……付き合って初めて、美樹ちゃんの部屋を訪ねるわけだから)

 一階には彼女の母親がいるわけだから、おかしなことはできない。してはいけない。そうわかってはいるが、どうしても妙な期待を抱いてしまう。

「――お待たせしましたっ」

 なかば駆け込むようにして美樹がやってきた。

「ああ、ありがとう」

 両手がふさがっている彼女の代わりに部屋の扉を閉める。

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