あいまいな恋の自覚 ~鬼畜な御曹司と淫らな遊び~ 《

ウスイホールディングズ株式会社での勤務最終日はすぐにやってきた。いや、最終日などと言うのは縁起が悪い。このオフィスと永遠にサヨナラするわけではない……はずだ。

「嶋谷さん、大丈夫ですよ……。すぐに戻ってこられますって」

ひとつ下の後輩の言葉には全く誠意を感じられなかった。そう思ってしまうのはきっと、自分が今ひどくすさんだ気持ちだからだ。

「そうだといいんだけど……。戻ってきたら、またよろしくね」

荷物をまとめる手を休めることなく笑顔を取り繕って愛莉は言った。戻って来た頃には、いや、もう明日にでも後輩の彼女が主任の座に就いていることだろう。

(やっぱり、悔しい……っ!)

大声でわめき散らしたかった。主任になるであろう彼女に対してだけではない。新人のようなミスをした自分自身に心底、腹が立っていた。

「荷物、多いですね……。お手伝いしましょうか?」

「大丈夫、気にしないで。引き継ぎが不十分で申し訳ないけど……。何かわからないことがあったら連絡してね」

一昨年に一目惚れして買った赤縁眼鏡の端を指で上げる。そんな台詞を吐くのも情けないが去り際くらいは先輩面をしたいものだ。残りの書類をろくに分別もせずに紙袋に押し込む。

「おーい、ちょっといいかー」

「あ、はい! それじゃあ嶋谷さん、また」

「うん、また……ね」

ひとつ年下の後輩は部長に呼ばれて行ってしまった。小さく手を振り会釈をする彼女と同じ行動を取りながら見送る。異様に物悲しいのはなぜだろう。これがもし寿退職だったら、こんなにわびしい気持ちにはならないのかもしれない。

「嶋谷さん、直で行きますよね? あっ、荷物を運ぶのお手伝いします」

同じく帰り支度を整えたらしい静香に声をかけられた。

「ありがと。じゃあお言葉に甘えて」

軽めの紙袋を彼女に預け、並んでオフィスを出た。増島は営業先から直接、居酒屋へ行くらしい。
街路の桜はほとんど葉っぱになっていた。春風が残りわずかな花びらを散らす。道端に広がる薄桃色の絨毯は泥で踏みにじられている。
華々しく咲いているときはみなが天を仰いで感嘆する。しかし散り落ちてしまった泥まみれの花びらをしげしげと見つめるのは自分くらいかもしれない。
何事にも終わりがあるように、愛莉の仕事にも終わりがきたのだろうか。

(やだっ、何を考えてるんだろう。まだまだこれからだっていうのに)

先ほどまで働いていた会社にはそれなりに志を持って入社した。子どもの頃に大好きだった玩具を作っている会社。ひとつのものを大切にし続けることを教えてくれた企業。
くよくよしていても始まらない。退職するわけではないのだからと自分に言い聞かせるが、あまりにも急だから割り切れない。
もやもやした気持ちのまま顔だけは何とか笑顔を取り繕って静香とともにたわいない話をしながら目的地へ着いた。
居酒屋というよりもカフェバーといった風情のおしゃれなところだ。増島と一緒に何度か来たことがある。彼の行きつけのバーだ。
深みのある茶色いアンティークの玄関扉を開けてなかへ入る。カウンター席の一番端にはすでに増島の姿があった。ミルクティブラウン色の髪のマスターと何やら話している。マスターはたしか祖母がイタリア人のクォーターなのだと、ずいぶん昔に増島が話していたのをふと思い出した。

「おー、来たな。座れ座れー」

手招きをする増島に吸い寄せられるように愛莉と静香は店の奥へ進んだ。ほかにはまだ客がいない。まだ陽も沈んでいない時間だから空いているが、間もなく混み合ってくるだろう。
増島の隣に愛莉、それから静香が腰をおろす。相変わらずこのバーの椅子はふかふかで座り心地がよい。
ふたりが椅子に座って、荷物をカウンターの下のカゴに入れると、タイミングを見計らっていたのか増島がマスターに向かって口を開く。

「適当にじゃんじゃん出して。あ、今夜は俺のオゴリ」

「えっ、いいんですか? やったぁ」

静香はパアッと表情を明るくさせて、増島に向かって「それじゃ遠慮なくー」とつぶやきながら、光沢のあるカウンターの上に差し出されたワイングラスをさっそく手に取った。

「私は、今日はほどほどにしておくよ」

酒の勢いに任せて暗い気分を払拭したいところだが、先日は飲みすぎて失敗したばかりだ。反省している。

「なに言ってんだよ、おまえのための送別会だぞ。転籍のことなんて忘れるくらい飲めって」

「んー……」

生返事をして愛莉もグラスを手に取る。

「それじゃ、嶋谷の転籍を祝って、かんぱーい」

全員がグラスを持ったところで、増島が乾杯の音頭を取った。転籍のことは忘れろと言ったくせにしっかり念を押しているではないかと心のなかでぼやきながらワインをあおる。
甘口だ。しっとりとお腹に響く、甘いワイン。なんだかなぐさめられているような気になる。
いや、実際に増島と静香にはなぐさめられている。

「私は嶋谷さんナシじゃ仕事なんかできません! ひっく……ぅ……。寂しい、です」

静香は早くも酔いが回ってきたようだ。トロンとした瞳で何杯目かわからないワインを飲み干し、ぎゅうっと愛莉の手の甲をつかんだ。触れ合っている部分が熱い。

「うん、私も寂しいよ……」

これは走馬灯だろうか。いや、まだ死ぬわけではない。死にたくない。しかし静香との思い出が次々と頭のなかを巡っていく。
愛莉は静香の指導係だった。指導といってもその当時の愛莉はそれほど仕事ができたわけではないから、試行錯誤の毎日だった。
汗だくになりながら外回りをして、成績が上がったときはハイタッチで喜びを分かち合い、時にはともに頭を下げ、愚痴をこぼしあって朝まで飲んだことが幾度となくある。

「嶋谷さん……泣かないで。私、我慢してたのに」

「……え」

艶やかな茶色いカウンターに水粒が散った。顔を上げた拍子に涙がこぼれたのだ。

「はは、やだな。歳かなぁ……」

愛着はいまの仕事に関してだけではない。同僚と離れるのも――むしろそちらのほうが辛いのかもしれない。

「とにかく飲みましょう! 嶋谷さんが本社に戻ったときの前祝いです!」

目尻の涙をこすっていると、静香が明るい調子でそう言った。

「まだ転籍もしてないのに、いくらなんでもそれは」

苦笑したらよけいに涙がこぼれた。嬉しくて、でも寂しくて次から次に溢れてくる。

「マジで歳なんじゃないか、嶋谷」

カウンターにひじをつき、困ったような顔で笑う増島に「うるさい」と言葉を投げてにらみ、愛莉はごくごくと勢いよくワインをあおった。

それから約二時間後。
酔いつぶれて寝息を立てる可愛い後輩に、愛莉はそっとブランケットをかけた。マスターが奥の部屋から持ってきてくれた毛布だ。

「……私たちって、なんで別れたんだっけ」

「……唐突だな」

静香を挟んで増島と会話する。愛莉はふと思いついたことをつぶやいただけだった。酔いが回ってうまくまわらない頭で当時のことを思い起こす。

「もともとそんなに好きじゃなかったのかも」

「はは、それを言うか? けっこう傷つくなぁ」

「ごめん、その……」

「謝られるとよけいに傷つくからもう何も言うな。おまえ今それどころじゃないだろうし。
新しいトコでも頑張れよ。おまえなら大丈夫だろ。仕事ひとすじだから」

増島がまぶたを細めて左手のこぶしを突き出している。

「ん、ありがと」

右のこぶしを突き返しながら愛莉もほほえむ。よき同僚に恵まれ、自分は本当に幸せ者だと思った。

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