バーで飲み明かした翌日、愛莉は行きつけの眼鏡店にいた。大学時代から世話になっている店で、従業員はみな顔なじみだ。
「どうでした? コンタクト、いけそうですか?」
30代後半の女性店長とは特に仲がよかった。いま身につけている赤縁の眼鏡は彼女と色違いのものだ。
「はい、大丈夫みたいです。お願いします」
眼鏡店に隣接する眼科を受診した愛莉は、女性店長に紙切れを渡した。コンタクトレンズにするための処方箋だ。厳密に言うと処方箋ではないようだが、とにかくここではこの紙切れがないとコンタクトレンズを購入できないらしい。
「でもどうなさったんですか? 急にコンタクトに変えたいだなんて……。あ、ううん。もちろん、コンタクトでも嶋谷さんは変わらずかわいらしいですよ」
視力が落ちてきた大学時代から社会人になってもずっと眼鏡を貫いていた。平凡な自分のトレードマークのつもりだった。けれど今回、転籍することになって、どうしても何かを変えたかった。
「実は会社を移ることになったんですよ」
愛莉はカウンターの向こう側でコンタクトレンズの準備をしている店長を目で追いながら丸椅子に腰をおろした。
「えっ!? じゃあ引っ越しちゃうんですか!?」
店長が振り返った。青い縁の眼鏡をかけ、身体のラインにぴったりと沿ったパンツスーツを着ている。いかにもデキル女性といった雰囲気で、実際、仕事はとても丁寧でかつ早い。
「いえ、引っ越しはしなくていい距離の異動なので、これからもお世話になります」
「ああ、よかった……。嶋谷さんがいらっしゃるの、いつも楽しみにしてたから……。って、ごめんなさいね、いつも長々とお引き止めしちゃって」
「そんな、私も店長とお話するの楽しいですから」
女性店長と会話をしながらコンタクトレンズを瞳に入れた。
眼鏡がなくても、視界がぼやけない。
鏡に映ったクリアな自分を見つめる。愛莉にとってはこれだけで新世界だった。
「ああ……なんか、若くなった気分です。眼鏡なしでも、よく見える」
「もう、嶋谷さんったら。じゅうぶん若いですって。そうだ、まだ時間ありますか? お茶でもどう?」
幸い客は愛莉のほかに誰もいない。愛莉も遠慮はしない。
「お言葉に甘えて、いただきます。いつもありがとうございます」
沖縄出身の彼女が淹れるお茶――さんぴん茶というのだが、ジャスミンと緑茶を混ぜ合わせたものだそうで、愛莉はこのお茶がとても気に入っていた。香り高く、後味がさっぱりとしていて爽やかな気分になる。
(よしっ、来週からも頑張るぞ)
飲み明かしても、どこかまだ引きずっていた。しかしようやく前を向いて歩けそうだ。
愛莉は店長に何度も礼を言って、店を出た。
それから愛莉は徒歩で自宅へ向かっていたのだが、ふと急に思い立って帰路とは別の道を歩いた。
(ここかあ……。新しい職場は)
3階建ての、なんの変哲もない白い壁のビル。ここが、来週から愛莉が務める会社だ。
見たとろろ1階が事務所のようだ。2階と3階は倉庫だろうか。会社の規模としてはそれほど大きくない。むしろ、愛莉がこれまで働いていた会社と比べるととても小さい。
1階の事務所の前面は駐車スペースになっているが、いまは1台も停まっていない。事務所内の電気も消えているところを見ると、本社と同じで土曜日は休みのようだ。
(なかはどんなふうになってるんだろ。ていうか、何をする会社なんだっけ)
引き継ぎなどの業務整理ばかりしていたせいで、転籍先の会社のことは住所だけしか調べていなかった。
(肝心の業務内容がわからないままなのは、いくらなんでもマズイよね……)
スマートフォンで社名検索をしてみるものの、玩具の製造販売としか記載されていない。
本社にいるあいだにグループ内ネットワークを使って調べておくべきだったと後悔しながら、開かない自動ドアにへばりついてなかの様子をうかがっているときだった。
「どちらさまかしら」
「ぎゃっ!?」
耳もとで急に女性の声がした。愛莉は奇声を発して身体を跳ねさせた。
なかの様子をうかがうことに夢中になっていたせいか、すぐそばに人がきたことに全く気がついていなかった。
「あっ、いえ、決して怪しい者では」
「怪しいひとに限ってそういうこと言うわよね。ええと、警察に電話っと」
「ちょ、待ってください! 本当に私、その」
両手をかざして左右に振り、何か弁明しなければとあせる。しかしうろたえるばかりで何も言葉が出てこない。すると目の前の女性はスマートフォンを口もとに当ててにっこりとほほえんだ。
「……ふふ、ごめんなさい。わかってるわ。あなた、悪いひとに見えないもの。あんまり慌てるからかわいくって、ちょっとからかっちゃった」
「は、はぁ……」
「それで、この会社に何か用? あいにく今日はお休みよ」
「あ、ええと……。私、来週からこちらの会社でお世話になる予定の者でして、今日は下見に」
わざわざ声をかけてきたのだ。この女性はきっとこの会社の社員なのだろうと踏んで、正直に話した。
「あら、そうなの。あなたが……」
女性が詰め寄ってきた。ふわりといい香りがした。大人の女性の香りだと思えるのは、いま目の前にいるおそらく年上の女性がとても美しく妖艶だからだろう。
「よく見るとあなた、私の若い頃にそっくりだわ。眼鏡をかけていたら完璧」
「え、え……?」
女性は愛莉の頬に両手を添え、ぺたぺたと感触を確かめるようにさわっている。
「このお肌の感じ……。あなた、27歳ね?」
「なっ、ええ……!? さわっただけでわかるんですか?」
「ふふ、まあね。さて、自己紹介は来週でいいわね。また会えるのを楽しみにしてるわ。それじゃ、また」
女性が身をひるがえすと、茶色いウェーブがかった髪の毛がふわりと揺れた。優雅に手を振って去っていく女性を、愛莉は呆然と見つめていた。
「どうでした? コンタクト、いけそうですか?」
30代後半の女性店長とは特に仲がよかった。いま身につけている赤縁の眼鏡は彼女と色違いのものだ。
「はい、大丈夫みたいです。お願いします」
眼鏡店に隣接する眼科を受診した愛莉は、女性店長に紙切れを渡した。コンタクトレンズにするための処方箋だ。厳密に言うと処方箋ではないようだが、とにかくここではこの紙切れがないとコンタクトレンズを購入できないらしい。
「でもどうなさったんですか? 急にコンタクトに変えたいだなんて……。あ、ううん。もちろん、コンタクトでも嶋谷さんは変わらずかわいらしいですよ」
視力が落ちてきた大学時代から社会人になってもずっと眼鏡を貫いていた。平凡な自分のトレードマークのつもりだった。けれど今回、転籍することになって、どうしても何かを変えたかった。
「実は会社を移ることになったんですよ」
愛莉はカウンターの向こう側でコンタクトレンズの準備をしている店長を目で追いながら丸椅子に腰をおろした。
「えっ!? じゃあ引っ越しちゃうんですか!?」
店長が振り返った。青い縁の眼鏡をかけ、身体のラインにぴったりと沿ったパンツスーツを着ている。いかにもデキル女性といった雰囲気で、実際、仕事はとても丁寧でかつ早い。
「いえ、引っ越しはしなくていい距離の異動なので、これからもお世話になります」
「ああ、よかった……。嶋谷さんがいらっしゃるの、いつも楽しみにしてたから……。って、ごめんなさいね、いつも長々とお引き止めしちゃって」
「そんな、私も店長とお話するの楽しいですから」
女性店長と会話をしながらコンタクトレンズを瞳に入れた。
眼鏡がなくても、視界がぼやけない。
鏡に映ったクリアな自分を見つめる。愛莉にとってはこれだけで新世界だった。
「ああ……なんか、若くなった気分です。眼鏡なしでも、よく見える」
「もう、嶋谷さんったら。じゅうぶん若いですって。そうだ、まだ時間ありますか? お茶でもどう?」
幸い客は愛莉のほかに誰もいない。愛莉も遠慮はしない。
「お言葉に甘えて、いただきます。いつもありがとうございます」
沖縄出身の彼女が淹れるお茶――さんぴん茶というのだが、ジャスミンと緑茶を混ぜ合わせたものだそうで、愛莉はこのお茶がとても気に入っていた。香り高く、後味がさっぱりとしていて爽やかな気分になる。
(よしっ、来週からも頑張るぞ)
飲み明かしても、どこかまだ引きずっていた。しかしようやく前を向いて歩けそうだ。
愛莉は店長に何度も礼を言って、店を出た。
それから愛莉は徒歩で自宅へ向かっていたのだが、ふと急に思い立って帰路とは別の道を歩いた。
(ここかあ……。新しい職場は)
3階建ての、なんの変哲もない白い壁のビル。ここが、来週から愛莉が務める会社だ。
見たとろろ1階が事務所のようだ。2階と3階は倉庫だろうか。会社の規模としてはそれほど大きくない。むしろ、愛莉がこれまで働いていた会社と比べるととても小さい。
1階の事務所の前面は駐車スペースになっているが、いまは1台も停まっていない。事務所内の電気も消えているところを見ると、本社と同じで土曜日は休みのようだ。
(なかはどんなふうになってるんだろ。ていうか、何をする会社なんだっけ)
引き継ぎなどの業務整理ばかりしていたせいで、転籍先の会社のことは住所だけしか調べていなかった。
(肝心の業務内容がわからないままなのは、いくらなんでもマズイよね……)
スマートフォンで社名検索をしてみるものの、玩具の製造販売としか記載されていない。
本社にいるあいだにグループ内ネットワークを使って調べておくべきだったと後悔しながら、開かない自動ドアにへばりついてなかの様子をうかがっているときだった。
「どちらさまかしら」
「ぎゃっ!?」
耳もとで急に女性の声がした。愛莉は奇声を発して身体を跳ねさせた。
なかの様子をうかがうことに夢中になっていたせいか、すぐそばに人がきたことに全く気がついていなかった。
「あっ、いえ、決して怪しい者では」
「怪しいひとに限ってそういうこと言うわよね。ええと、警察に電話っと」
「ちょ、待ってください! 本当に私、その」
両手をかざして左右に振り、何か弁明しなければとあせる。しかしうろたえるばかりで何も言葉が出てこない。すると目の前の女性はスマートフォンを口もとに当ててにっこりとほほえんだ。
「……ふふ、ごめんなさい。わかってるわ。あなた、悪いひとに見えないもの。あんまり慌てるからかわいくって、ちょっとからかっちゃった」
「は、はぁ……」
「それで、この会社に何か用? あいにく今日はお休みよ」
「あ、ええと……。私、来週からこちらの会社でお世話になる予定の者でして、今日は下見に」
わざわざ声をかけてきたのだ。この女性はきっとこの会社の社員なのだろうと踏んで、正直に話した。
「あら、そうなの。あなたが……」
女性が詰め寄ってきた。ふわりといい香りがした。大人の女性の香りだと思えるのは、いま目の前にいるおそらく年上の女性がとても美しく妖艶だからだろう。
「よく見るとあなた、私の若い頃にそっくりだわ。眼鏡をかけていたら完璧」
「え、え……?」
女性は愛莉の頬に両手を添え、ぺたぺたと感触を確かめるようにさわっている。
「このお肌の感じ……。あなた、27歳ね?」
「なっ、ええ……!? さわっただけでわかるんですか?」
「ふふ、まあね。さて、自己紹介は来週でいいわね。また会えるのを楽しみにしてるわ。それじゃ、また」
女性が身をひるがえすと、茶色いウェーブがかった髪の毛がふわりと揺れた。優雅に手を振って去っていく女性を、愛莉は呆然と見つめていた。