5年間通い慣れたオフィスを去った翌週、いつもとは違う通勤路を少し物悲しくなりながら歩き、愛莉はふたたび3階建てのオフィスビル前に到着した。
(はー……緊張する)
オフィスのなかをのぞきこむ。今日は電気がついている。昨日の女性はいるだろうか。
外から見たところ、受付カウンターには誰もいない。オフィスの感じからして、直接の客商売ではないようだから、取引相手が尋ねてきたときにだけカウンターで応対するのだろう。
ふうっと深呼吸をしてオフィスのなかへ足を踏み入れる。
案の定、カウンターの奥が事務所になっていた。さっそく一昨日の夕刻に出会った女性を見つけ、愛莉は少しだけほっとした。
「おはようございます! 本日付けでこちらに転籍になりました、嶋谷 愛莉です」
一昨日の女性はいまは事務服を着ている。ほかにもひとり、同い年くらいのスーツの男性がこちらを振り向いた。ふたりのほかにはだれもいない。
「ああ、どうぞどうぞ、ここに座って。きみの席はココね。僕がしっかり掃除しておいてあげたよ」
ストライプのスーツに真っ赤な派手なネクタイをした男性が指をさす。最低限の事務用品しか置かれていない机は確かに空席のようだ。
「ありがとうございます」
お辞儀をして、男性が指し示す席へ歩く。愛莉が席につくなり、派手なネクタイの男がガタンとうるさい物音を響かせて椅子から立ち上がった。
「僕は塩野谷《しおのや》 悠真《ゆうま》、27歳独身。よろしく! で、そっちの人形みたいに綺麗な女性は――」
「蜷川《にながわ》 秋穂《あきほ》です。年齢は聞かないでね。一昨日はどうも、愛莉ちゃん。これからどうぞよろしく」
「はいっ、よろしくお願いします」
「え、なになに? 蜷川さん、愛莉ちゃんと知り合いだったの?」
姓ではなく名前で呼んでくるあたり、ふたりとも気さくな性格のようだ。
「一昨日、こちらに下見にきてたんですけど、そのときにたまたま蜷川さんとお会いしたんです」
「ああ、そうなんだ? でも蜷川さん、休みなのになんで……って、ああ。社長に用事だったとか?」
「ええ、まあそんなところ」
愛莉は首を傾げた。土曜日も社長だけは出社していたのだろうか。それを尋ねてよいものかと迷っていると、先に塩野谷が口を開いた。
「それじゃ、適当に座って寛いでてねー。いまは社長、外出してるから」
「……え? あの」
「あっ、やだ……ココ、しみが目立つ」
蜷川は大きな手鏡を見ながら化粧を直し始めた。適当に寛げと言い放った塩野谷は大きくあくびをして椅子に座り、机にドッカと足を乗せて寝息を立てている。一瞬で眠れるなんて、すごい。
(いやいやいや、そうじゃなくて!)
「あの……すみません。何かお手伝いできること、ありませんか」
瞳を閉じてしまった塩野谷には聞き辛いから、大きな目をシッカリと開けている蜷川におずおずと尋ねる。
「んー……特にないわねぇ。あ、そうだ。お茶を淹れてきてくれる? 喉が渇いたから紅茶を飲みたいわ。給湯室はそこの角を曲がったところにあるから、よろしくね」
愛莉は「はい」と短く返事をして給湯室へ向かった。
きちんと整頓された給湯室で紅茶を探す。戸棚の中も片付いていたから、紅茶の葉はすぐに見つかった。
(ティーバッグじゃないんだな……小さな会社なのに、リッチ)
まずはお茶汲みからというのは当たり前だ。けれど蜷川は他には仕事がないと言っているようだった。意地悪をされている気はしない。
(ううん、私にできること、きっとあるはず)
眼鏡をコンタクトにかえて心機一転したのだ。会社の大小にかかわらず少しでも貢献したいと願う。
愛莉はやかんで湯を沸かし、沸騰直前に止めた。茶葉を入れた透明のティーポットから高級そうなカップに香り高いアップルティーを注ぐ。
(この紅茶を出したら、蜷川さんに業務内容を詳しく聞こう)
香りとともに立ちのぼる湯気を浴びながら、愛莉はやる気をみなぎらせた。
食器棚の脇に置いてあった漆の丸い盆にティーカップを乗せ、事務室へ運ぶ。先ほどと同じ体勢で化粧直しをする蜷川の前に差し出した。
「あら……なあに、この紅茶すごく美味しいわ。愛莉ちゃん、新しい茶葉を持ってきてたの?」
「いえ、違います。給湯室の戸棚にあったものです」
新しい職場の先輩、蜷川は淹れたての紅茶を上品にすすった。満足げにほほえむ姿は優美だ。
「今度からは愛莉ちゃんに淹れてもらうことにしましょう。悠真が淹れたのなんて、もう飲めないわ」
はは、とひかえめに笑いながら愛莉は蜷川のデスク前に突っ立ったままだった。
(どうしよう、タイミングがつかめない)
業務内容を尋ねようと先ほど決意したばかりだが、どうも話しかけづらい。
香りを楽しみながら上品にお茶をすする姿はさながら女王様といったところだ。話しかけるのがはばかられる。
しかしだからといって待っていても一向に次の指示はこない。愛莉は意を決してすうっと息を吸い込み、発声の準備をする。
「あの、ほかには何かありませんか?」
「んー……」
蜷川は思案顔でティーカップをソーサーに置いた。
「ごめんね、本当に何もないのよ。もしどうしても何かしたいんだったら……そうね、肩を揉んでくれるかしら」
愛莉は目を丸くしつつ、はいっと返事をして蜷川の後ろにまわり込んだ。
「失礼します」
彼女の両肩にそっと手を置き、揉みほぐす。意外とこっていたから、少し力を入れて揉んだ。いよいよ蜷川が女王様に見える。
「ぁ……いい……。すごくいいわぁ……。ん、そこぉ……」
愛莉はぎょっとしながらも、手を休めずに肩を揉み続けた。
(……なんか、いけないことしてる気分になる)
肩を揉んでいるだけなのに、こちらが恥ずかしくなってくる。
「えっ!? ちょ、何してんの」
隣の席の塩野谷が飛び起きた。蜷川の、嬌声まがいの色っぽい声に反応したのだろう。股間を押さえている姿がひどく滑稽に見えた。
「……肩を揉んでるだけですよ」
「あ、そう……じゃ、僕もあとで揉んでもらおっかな」
「私はマッサージ機じゃあない!」と言いかけて、グッと口をつぐむ。なんとか笑顔を取りつくろって「わかりました」と静かに言った。
(私……何してんだろ)
塩野谷の肩を揉みながら、先週までの職務とはあまりにかけ離れていることに愛莉はひとり落胆していた。
「あー………気持ちいい。愛莉ちゃん、肩を揉むのうますぎ! 天才っ」
こんなことで褒められてもまったく嬉しくないのだが、愛莉は小さな声で「ありがとうございます」とつぶいやいた。
(こんなとこ、絶対に見られたくないな……。前の職場の人には)
そう思っていた矢先、オフィスの自動ドアがスーッとひらいた。入ってきたのは、いましがたもっとも会いたくないと思っていたひとだ。
「……おはようございます、嶋谷さん。あの、お忘れ物があったのでお届けに参りました」
ふたつ年下の元同僚、静香は申しわけのなさそうな表情でこちらを見ている。
「あ、もういいよ。愛莉ちゃんの前の職場の人でしょ? 応対してあげて」
塩野谷の肩に手を置いたまま凍りついていた愛莉は彼の甲高い声でわれにかえった。
パッと両手を宙に浮かせて、片方を顔のそばに持ってくる。
(あ……眼鏡はかけてないんだった)
つい癖で眼鏡の縁を上げようとして空振りしてしまった。どうしようもないその片手でぽりぽりと頬を掻き、受付カウンターへ向かう。
「ごめんね、手間かけさせちゃって」
「いえ、そんな。嶋谷さん、コンタクトになさったんですか? それじゃ、もう必要なかったですね……」
忘れ物はずいぶん前に使っていた眼鏡ケースだった。ロッカーの隅に置き忘れていたらしい。
「ううん。わざわざ届けにきてくれて、ありがとう」
静香は愛莉よりも小柄だ。目線を落として彼女を見つめる。
「あの……私、嶋谷さんが戻ってきて下さるの、待ってますから」
涙腺が熱くなった。静香はいまの愛莉の職場環境を憐れんでいるのか、それとも本当に愛莉を必要としてくれているのか。
「うん……。戻るよ、絶対」
愛莉は後ろのふたりに聞こえないよう、小さな声で言った。
(はー……緊張する)
オフィスのなかをのぞきこむ。今日は電気がついている。昨日の女性はいるだろうか。
外から見たところ、受付カウンターには誰もいない。オフィスの感じからして、直接の客商売ではないようだから、取引相手が尋ねてきたときにだけカウンターで応対するのだろう。
ふうっと深呼吸をしてオフィスのなかへ足を踏み入れる。
案の定、カウンターの奥が事務所になっていた。さっそく一昨日の夕刻に出会った女性を見つけ、愛莉は少しだけほっとした。
「おはようございます! 本日付けでこちらに転籍になりました、嶋谷 愛莉です」
一昨日の女性はいまは事務服を着ている。ほかにもひとり、同い年くらいのスーツの男性がこちらを振り向いた。ふたりのほかにはだれもいない。
「ああ、どうぞどうぞ、ここに座って。きみの席はココね。僕がしっかり掃除しておいてあげたよ」
ストライプのスーツに真っ赤な派手なネクタイをした男性が指をさす。最低限の事務用品しか置かれていない机は確かに空席のようだ。
「ありがとうございます」
お辞儀をして、男性が指し示す席へ歩く。愛莉が席につくなり、派手なネクタイの男がガタンとうるさい物音を響かせて椅子から立ち上がった。
「僕は塩野谷《しおのや》 悠真《ゆうま》、27歳独身。よろしく! で、そっちの人形みたいに綺麗な女性は――」
「蜷川《にながわ》 秋穂《あきほ》です。年齢は聞かないでね。一昨日はどうも、愛莉ちゃん。これからどうぞよろしく」
「はいっ、よろしくお願いします」
「え、なになに? 蜷川さん、愛莉ちゃんと知り合いだったの?」
姓ではなく名前で呼んでくるあたり、ふたりとも気さくな性格のようだ。
「一昨日、こちらに下見にきてたんですけど、そのときにたまたま蜷川さんとお会いしたんです」
「ああ、そうなんだ? でも蜷川さん、休みなのになんで……って、ああ。社長に用事だったとか?」
「ええ、まあそんなところ」
愛莉は首を傾げた。土曜日も社長だけは出社していたのだろうか。それを尋ねてよいものかと迷っていると、先に塩野谷が口を開いた。
「それじゃ、適当に座って寛いでてねー。いまは社長、外出してるから」
「……え? あの」
「あっ、やだ……ココ、しみが目立つ」
蜷川は大きな手鏡を見ながら化粧を直し始めた。適当に寛げと言い放った塩野谷は大きくあくびをして椅子に座り、机にドッカと足を乗せて寝息を立てている。一瞬で眠れるなんて、すごい。
(いやいやいや、そうじゃなくて!)
「あの……すみません。何かお手伝いできること、ありませんか」
瞳を閉じてしまった塩野谷には聞き辛いから、大きな目をシッカリと開けている蜷川におずおずと尋ねる。
「んー……特にないわねぇ。あ、そうだ。お茶を淹れてきてくれる? 喉が渇いたから紅茶を飲みたいわ。給湯室はそこの角を曲がったところにあるから、よろしくね」
愛莉は「はい」と短く返事をして給湯室へ向かった。
きちんと整頓された給湯室で紅茶を探す。戸棚の中も片付いていたから、紅茶の葉はすぐに見つかった。
(ティーバッグじゃないんだな……小さな会社なのに、リッチ)
まずはお茶汲みからというのは当たり前だ。けれど蜷川は他には仕事がないと言っているようだった。意地悪をされている気はしない。
(ううん、私にできること、きっとあるはず)
眼鏡をコンタクトにかえて心機一転したのだ。会社の大小にかかわらず少しでも貢献したいと願う。
愛莉はやかんで湯を沸かし、沸騰直前に止めた。茶葉を入れた透明のティーポットから高級そうなカップに香り高いアップルティーを注ぐ。
(この紅茶を出したら、蜷川さんに業務内容を詳しく聞こう)
香りとともに立ちのぼる湯気を浴びながら、愛莉はやる気をみなぎらせた。
食器棚の脇に置いてあった漆の丸い盆にティーカップを乗せ、事務室へ運ぶ。先ほどと同じ体勢で化粧直しをする蜷川の前に差し出した。
「あら……なあに、この紅茶すごく美味しいわ。愛莉ちゃん、新しい茶葉を持ってきてたの?」
「いえ、違います。給湯室の戸棚にあったものです」
新しい職場の先輩、蜷川は淹れたての紅茶を上品にすすった。満足げにほほえむ姿は優美だ。
「今度からは愛莉ちゃんに淹れてもらうことにしましょう。悠真が淹れたのなんて、もう飲めないわ」
はは、とひかえめに笑いながら愛莉は蜷川のデスク前に突っ立ったままだった。
(どうしよう、タイミングがつかめない)
業務内容を尋ねようと先ほど決意したばかりだが、どうも話しかけづらい。
香りを楽しみながら上品にお茶をすする姿はさながら女王様といったところだ。話しかけるのがはばかられる。
しかしだからといって待っていても一向に次の指示はこない。愛莉は意を決してすうっと息を吸い込み、発声の準備をする。
「あの、ほかには何かありませんか?」
「んー……」
蜷川は思案顔でティーカップをソーサーに置いた。
「ごめんね、本当に何もないのよ。もしどうしても何かしたいんだったら……そうね、肩を揉んでくれるかしら」
愛莉は目を丸くしつつ、はいっと返事をして蜷川の後ろにまわり込んだ。
「失礼します」
彼女の両肩にそっと手を置き、揉みほぐす。意外とこっていたから、少し力を入れて揉んだ。いよいよ蜷川が女王様に見える。
「ぁ……いい……。すごくいいわぁ……。ん、そこぉ……」
愛莉はぎょっとしながらも、手を休めずに肩を揉み続けた。
(……なんか、いけないことしてる気分になる)
肩を揉んでいるだけなのに、こちらが恥ずかしくなってくる。
「えっ!? ちょ、何してんの」
隣の席の塩野谷が飛び起きた。蜷川の、嬌声まがいの色っぽい声に反応したのだろう。股間を押さえている姿がひどく滑稽に見えた。
「……肩を揉んでるだけですよ」
「あ、そう……じゃ、僕もあとで揉んでもらおっかな」
「私はマッサージ機じゃあない!」と言いかけて、グッと口をつぐむ。なんとか笑顔を取りつくろって「わかりました」と静かに言った。
(私……何してんだろ)
塩野谷の肩を揉みながら、先週までの職務とはあまりにかけ離れていることに愛莉はひとり落胆していた。
「あー………気持ちいい。愛莉ちゃん、肩を揉むのうますぎ! 天才っ」
こんなことで褒められてもまったく嬉しくないのだが、愛莉は小さな声で「ありがとうございます」とつぶいやいた。
(こんなとこ、絶対に見られたくないな……。前の職場の人には)
そう思っていた矢先、オフィスの自動ドアがスーッとひらいた。入ってきたのは、いましがたもっとも会いたくないと思っていたひとだ。
「……おはようございます、嶋谷さん。あの、お忘れ物があったのでお届けに参りました」
ふたつ年下の元同僚、静香は申しわけのなさそうな表情でこちらを見ている。
「あ、もういいよ。愛莉ちゃんの前の職場の人でしょ? 応対してあげて」
塩野谷の肩に手を置いたまま凍りついていた愛莉は彼の甲高い声でわれにかえった。
パッと両手を宙に浮かせて、片方を顔のそばに持ってくる。
(あ……眼鏡はかけてないんだった)
つい癖で眼鏡の縁を上げようとして空振りしてしまった。どうしようもないその片手でぽりぽりと頬を掻き、受付カウンターへ向かう。
「ごめんね、手間かけさせちゃって」
「いえ、そんな。嶋谷さん、コンタクトになさったんですか? それじゃ、もう必要なかったですね……」
忘れ物はずいぶん前に使っていた眼鏡ケースだった。ロッカーの隅に置き忘れていたらしい。
「ううん。わざわざ届けにきてくれて、ありがとう」
静香は愛莉よりも小柄だ。目線を落として彼女を見つめる。
「あの……私、嶋谷さんが戻ってきて下さるの、待ってますから」
涙腺が熱くなった。静香はいまの愛莉の職場環境を憐れんでいるのか、それとも本当に愛莉を必要としてくれているのか。
「うん……。戻るよ、絶対」
愛莉は後ろのふたりに聞こえないよう、小さな声で言った。