蜷川と塩野谷の肩を揉み、午後にはふたりに紅茶を出して、ほかにやることもないので事務所のなかを掃除しているときだった。
モップがけをしていると、床面以上にピカピカに磨き上げられた革靴が目に入った。
「社長っ! お帰りなさいませ!」
気の抜けたような話しかただった塩野谷が別人のように声を張り上げ、またしてもガタンとうるさい音を立てている。急いで椅子から立ち上がったもようだ。
蜷川は相変わらず自分のまつ毛に夢中のようで、鏡から目を逸らさずに「お疲れ様ですー」とつぶやいている。
愛莉はゆっくりと視線を上向けた。
濃紺のスーツに、清潔感があって目立ちすぎない色のネクタイは目の前のひとによく似合っていた。自分に似合う色を知っている、そんな大人の男性という印象を受ける。
「はっ、初めまして! 今日からこちらで働くことになった――」
モップを後ろ手に持って自己紹介しようとしたときだった。塩野谷に「社長」と呼ばれた彼は急に眉間にしわを寄せて険しい表情になった。
(ひぇ……っ!?)
怖い、そのひとことに尽きる。整った顔が歪み、道端で朽ち果てた雑草でも眺めるような冷たい目つきだ。
勤務初日、出会ってまだ数秒しか経っていないのに、転籍先のボスの気に障ることをしてしまったのかと不安になる。
「……なぜ眼鏡ではないんだ。それにきみとは初対面ではない、嶋谷くん」
静かに名前を呼ばれ、愛莉は総毛立った。なんて低い声なんだろう。こう、身体の奥に響くような声音だ。脅されているような気になる。
「あ……っと、そうですね。失礼しました、社長」
愛莉は曖昧に笑いながら返す。しかしいくら記憶の糸を辿っても彼のことが思い出せなかった。
(誰だっけ、この人……!? こんなイケメン、忘れるわけないのに)
考えても考えても、顔はおろか名前の一文字すら思い出せない。適当に話を合わせてしまったことをすぐに後悔した。
社長がまぶたを細める。どこか不愉快そうだ。
「眼鏡をかけろ」
「……はい?」
「赤い縁の眼鏡をかけていただろう。早くかけろと言っている」
愛莉の頭のなかにはクエスチョンマークが乱立していた。
なぜ愛莉が赤縁眼鏡をかけていたことを知っているのだろう。
それに、新たな気持ちで頑張ろうとコンタクトレンズに変えたばかりだというのになぜまた眼鏡に戻さなければいけないのだ。
「その……なぜ眼鏡でなければいけないのでしょうか」
おずおずと尋ねた。空気が凍るというのはいまのような状況をいうのだろうか。
「っ、愛莉ちゃん! いいから、言うこと聞いて! 眼鏡、持ってきてる?」
塩野谷に口を挟まれ、愛莉はコクンとうなずいた。
「だったら早く眼鏡をかけてきて。いやあ、社長、今日はいい天気ですね」
しっ、しっ、と追い払うような手振りで塩野谷に指示をされ、愛莉は心底不満だったが言われたとおりにハンドバッグを持ってトイレへ向かった。一緒に持っていたモップは途中で用具室におさめた。
(いったいなんなのよ! なんで眼鏡じゃなきゃいけないわけ?)
鏡の前でコンタクトレンズを外し、ケースにしまう。見慣れた赤い縁の眼鏡姿に変わる。
こちらのほうがしっくりくる。なんだか妙に悔しくなった。
事務所へ戻ると、社長は同じ場所に立っていた。どうやら愛莉を待っていたようだ。
「え、と……これでいいんでしょうか」
赤縁眼鏡の端を片手で上げる。社長は表情を変えずに「ああ」とだけつぶやいた。
廊下があるほうの扉へすたすたと歩く彼を見つめる。
「……こい。社を案内してやる」
社長は少しだけこちらを振り返り、そう言うなり扉を開けて出て行ってしまった。
「あら珍しいわねぇ、諒太くんが自分から社を案内するなんて」
「ちょっと愛莉ちゃんっ、社長とも知り合いだったの!?」
蜷川と塩野谷のふたりから同時に話しかけられ、愛莉はますます混乱する。
「いえっ、その……。あ、蜷川さん、社長の名前を教えて下さい! フルネームで」
「うん? 知り合いじゃなかったの? ま、いいけど……。彼の名前は碓氷 諒太。35歳、まだ独身よ。恋人は、いまはいないみたい。ちなみにあなたが以前、働いていたところの社長の息子よ」
よけいな情報まで得たものの、やはり名前にも覚えがない。
碓氷、碓氷……確かに本社の社長もそんな名字だったような気がする。
「愛莉ちゃん、とりあえず社長を追いかけて。早く行かないと殺されるっ」
取り乱した様子の塩野谷が愛莉の背を押してうながす。
「殺されるって、そんな大げさな……」
はは、と苦笑いしてみると、塩野谷はごく真面目な顔つきで話し続ける。
「知らないの? あのひと、僕らとは住む世界が違うんだよ。アッチ系の人なのっ! 角刈りの人に『若』って呼ばれてるのを見たことあるんだ。見た目どおりの鬼畜社長だから、気をつけてっ!」
小指を折って愛莉に見せつける塩野谷。それは、つまり……。
「ご、極道のかたなんですか」
塩野谷はコクコクと何度もうなずいている。愛莉は青ざめて、あの威圧的な雰囲気はそういうことなのだと合点した。
とにかく今やるべきことは一つだ。事務所のドアを開けて廊下に出る。
(転籍した挙句にコンクリづめで海のなかなんて、絶対にイヤ……!)
階段を上って行く彼の背を見つけ、愛莉はわが身かわいさに全速力で追いかけた。
「……ずいぶんと息が上がってるな。運動不足か?」
階段を上り切るころにようやく社長に追いついた愛莉は肩で息をしながら愛想笑いをした。
27歳の全力疾走はいろいろとこたえる。筋肉痛が2,3日遅れてくるだろうなとくだらない予想をしつつ社長の後ろを歩く。
「1階は事務所と応接室、2階は商品倉庫とモニター室になっている。3階は俺の自宅だ。昼食時は3階の自宅にいることが多いから、急用のときは呼びにきてくれ」
「そうなんですね。お忙しいところご案内していただいて、本当にありがとうございます」
「別に構わない。きみには期待している。ほかのふたりはあのとおり使い物にならないからな」
それには返さず苦笑いする。確かに彼らはまったくといっていいほど仕事をしていない。社長が帰ってきた途端に飛び起きた塩野谷はまだしも、蜷川なんて化粧をする手を休めもしていなかった。
「ご期待に添えるよう頑張ります」
愛莉はガゼンやる気になっていた。しかしそれはほんの一瞬だった。取り扱っている商品を倉庫で見た瞬間にアゼンとして口をポカンと開けてしまう。
「現在はホテルへの卸売りだけなんだが、インターネットによる顧客への直接販売を考えている」
社長は恥ずかしげもなく卑猥な形の玩具を手に取った。サンプルなのか、梱包はされていない。
「こういった類の玩具の使用経験は?」
「なっ……ない、です」
正直に吐露する。俗に言うバイブレーターというものは使ったこともなければもちろん買ったこともなかった。
「ではいますぐ使ってみろ。『玩具は使ってみなくてはわからない』だろ」
愛莉は驚いて目を見開いた。いますぐ使えと言われたことにもだけれど、愛莉の口癖を彼が知っていることになおさら驚いた。
「なんで、それ……」
「きみが言っていたことだろう? 覚えていないのか」
「え、と……すみません、覚えてません」
「まあいい。ほら、使え」
キノコ型の玩具を強引に持たされる。薄いピンク色のそれは持っているだけで恥ずかしい。
「むっ、無理です! そんな……いますぐ、使うなんて」
「きみは自分が使ったことのない玩具を売るなんてことはできないんだろう?」
「それは……そうですけど」
愛莉は碓氷社長と確かに言葉を交わしたことがあるようだ。愛莉の仕事のポリシーを熟知している。
「先に言っておくが、きみがこの社の売り上げに十二分に貢献するまで本社には戻さないからな」
「ええっ!? そんな……っ」
「戻りたければ、やるしかない。さあ、使うんだ」
ジリ、と詰め寄られる。反射的にあとずさり、白い壁に背中がぶつかった。
「……服の上からでもいいですか」
バイブを握りしめてうつむく。いくらなんでも彼に大切な場所をさらすわけにはいかない。社長は一見すると常識人のように見えたから、愛莉の要求をのんでくれると思っていた。
「服の上からでは使用感が違うだろう。別にきみの秘部を見せろと言っているわけではない。下着の中に突っ込めばいい」
あいた口が塞がらない。そうだ、この人は極道なのだ。一般人の常識などでははかれないのかもしれない。
「でも、でも……その、社長の前では……恥ずかしいです。家に帰ってからではダメですか」
食い下がる。これでもダメなら彼の言うとおりにするしかない。
「……いいだろう。ただし、使用感を如実に記した報告書を提出するように」
ほっと胸を撫でおろす。彼は卑猥なことをするのが目的ではないようだ。ごく真面目に、自分の会社の商品を試させたいだけなのだ。
愛莉は「はい」と短く返事をして、愛想の欠片もない社長を見上げた。
モップがけをしていると、床面以上にピカピカに磨き上げられた革靴が目に入った。
「社長っ! お帰りなさいませ!」
気の抜けたような話しかただった塩野谷が別人のように声を張り上げ、またしてもガタンとうるさい音を立てている。急いで椅子から立ち上がったもようだ。
蜷川は相変わらず自分のまつ毛に夢中のようで、鏡から目を逸らさずに「お疲れ様ですー」とつぶやいている。
愛莉はゆっくりと視線を上向けた。
濃紺のスーツに、清潔感があって目立ちすぎない色のネクタイは目の前のひとによく似合っていた。自分に似合う色を知っている、そんな大人の男性という印象を受ける。
「はっ、初めまして! 今日からこちらで働くことになった――」
モップを後ろ手に持って自己紹介しようとしたときだった。塩野谷に「社長」と呼ばれた彼は急に眉間にしわを寄せて険しい表情になった。
(ひぇ……っ!?)
怖い、そのひとことに尽きる。整った顔が歪み、道端で朽ち果てた雑草でも眺めるような冷たい目つきだ。
勤務初日、出会ってまだ数秒しか経っていないのに、転籍先のボスの気に障ることをしてしまったのかと不安になる。
「……なぜ眼鏡ではないんだ。それにきみとは初対面ではない、嶋谷くん」
静かに名前を呼ばれ、愛莉は総毛立った。なんて低い声なんだろう。こう、身体の奥に響くような声音だ。脅されているような気になる。
「あ……っと、そうですね。失礼しました、社長」
愛莉は曖昧に笑いながら返す。しかしいくら記憶の糸を辿っても彼のことが思い出せなかった。
(誰だっけ、この人……!? こんなイケメン、忘れるわけないのに)
考えても考えても、顔はおろか名前の一文字すら思い出せない。適当に話を合わせてしまったことをすぐに後悔した。
社長がまぶたを細める。どこか不愉快そうだ。
「眼鏡をかけろ」
「……はい?」
「赤い縁の眼鏡をかけていただろう。早くかけろと言っている」
愛莉の頭のなかにはクエスチョンマークが乱立していた。
なぜ愛莉が赤縁眼鏡をかけていたことを知っているのだろう。
それに、新たな気持ちで頑張ろうとコンタクトレンズに変えたばかりだというのになぜまた眼鏡に戻さなければいけないのだ。
「その……なぜ眼鏡でなければいけないのでしょうか」
おずおずと尋ねた。空気が凍るというのはいまのような状況をいうのだろうか。
「っ、愛莉ちゃん! いいから、言うこと聞いて! 眼鏡、持ってきてる?」
塩野谷に口を挟まれ、愛莉はコクンとうなずいた。
「だったら早く眼鏡をかけてきて。いやあ、社長、今日はいい天気ですね」
しっ、しっ、と追い払うような手振りで塩野谷に指示をされ、愛莉は心底不満だったが言われたとおりにハンドバッグを持ってトイレへ向かった。一緒に持っていたモップは途中で用具室におさめた。
(いったいなんなのよ! なんで眼鏡じゃなきゃいけないわけ?)
鏡の前でコンタクトレンズを外し、ケースにしまう。見慣れた赤い縁の眼鏡姿に変わる。
こちらのほうがしっくりくる。なんだか妙に悔しくなった。
事務所へ戻ると、社長は同じ場所に立っていた。どうやら愛莉を待っていたようだ。
「え、と……これでいいんでしょうか」
赤縁眼鏡の端を片手で上げる。社長は表情を変えずに「ああ」とだけつぶやいた。
廊下があるほうの扉へすたすたと歩く彼を見つめる。
「……こい。社を案内してやる」
社長は少しだけこちらを振り返り、そう言うなり扉を開けて出て行ってしまった。
「あら珍しいわねぇ、諒太くんが自分から社を案内するなんて」
「ちょっと愛莉ちゃんっ、社長とも知り合いだったの!?」
蜷川と塩野谷のふたりから同時に話しかけられ、愛莉はますます混乱する。
「いえっ、その……。あ、蜷川さん、社長の名前を教えて下さい! フルネームで」
「うん? 知り合いじゃなかったの? ま、いいけど……。彼の名前は碓氷 諒太。35歳、まだ独身よ。恋人は、いまはいないみたい。ちなみにあなたが以前、働いていたところの社長の息子よ」
よけいな情報まで得たものの、やはり名前にも覚えがない。
碓氷、碓氷……確かに本社の社長もそんな名字だったような気がする。
「愛莉ちゃん、とりあえず社長を追いかけて。早く行かないと殺されるっ」
取り乱した様子の塩野谷が愛莉の背を押してうながす。
「殺されるって、そんな大げさな……」
はは、と苦笑いしてみると、塩野谷はごく真面目な顔つきで話し続ける。
「知らないの? あのひと、僕らとは住む世界が違うんだよ。アッチ系の人なのっ! 角刈りの人に『若』って呼ばれてるのを見たことあるんだ。見た目どおりの鬼畜社長だから、気をつけてっ!」
小指を折って愛莉に見せつける塩野谷。それは、つまり……。
「ご、極道のかたなんですか」
塩野谷はコクコクと何度もうなずいている。愛莉は青ざめて、あの威圧的な雰囲気はそういうことなのだと合点した。
とにかく今やるべきことは一つだ。事務所のドアを開けて廊下に出る。
(転籍した挙句にコンクリづめで海のなかなんて、絶対にイヤ……!)
階段を上って行く彼の背を見つけ、愛莉はわが身かわいさに全速力で追いかけた。
「……ずいぶんと息が上がってるな。運動不足か?」
階段を上り切るころにようやく社長に追いついた愛莉は肩で息をしながら愛想笑いをした。
27歳の全力疾走はいろいろとこたえる。筋肉痛が2,3日遅れてくるだろうなとくだらない予想をしつつ社長の後ろを歩く。
「1階は事務所と応接室、2階は商品倉庫とモニター室になっている。3階は俺の自宅だ。昼食時は3階の自宅にいることが多いから、急用のときは呼びにきてくれ」
「そうなんですね。お忙しいところご案内していただいて、本当にありがとうございます」
「別に構わない。きみには期待している。ほかのふたりはあのとおり使い物にならないからな」
それには返さず苦笑いする。確かに彼らはまったくといっていいほど仕事をしていない。社長が帰ってきた途端に飛び起きた塩野谷はまだしも、蜷川なんて化粧をする手を休めもしていなかった。
「ご期待に添えるよう頑張ります」
愛莉はガゼンやる気になっていた。しかしそれはほんの一瞬だった。取り扱っている商品を倉庫で見た瞬間にアゼンとして口をポカンと開けてしまう。
「現在はホテルへの卸売りだけなんだが、インターネットによる顧客への直接販売を考えている」
社長は恥ずかしげもなく卑猥な形の玩具を手に取った。サンプルなのか、梱包はされていない。
「こういった類の玩具の使用経験は?」
「なっ……ない、です」
正直に吐露する。俗に言うバイブレーターというものは使ったこともなければもちろん買ったこともなかった。
「ではいますぐ使ってみろ。『玩具は使ってみなくてはわからない』だろ」
愛莉は驚いて目を見開いた。いますぐ使えと言われたことにもだけれど、愛莉の口癖を彼が知っていることになおさら驚いた。
「なんで、それ……」
「きみが言っていたことだろう? 覚えていないのか」
「え、と……すみません、覚えてません」
「まあいい。ほら、使え」
キノコ型の玩具を強引に持たされる。薄いピンク色のそれは持っているだけで恥ずかしい。
「むっ、無理です! そんな……いますぐ、使うなんて」
「きみは自分が使ったことのない玩具を売るなんてことはできないんだろう?」
「それは……そうですけど」
愛莉は碓氷社長と確かに言葉を交わしたことがあるようだ。愛莉の仕事のポリシーを熟知している。
「先に言っておくが、きみがこの社の売り上げに十二分に貢献するまで本社には戻さないからな」
「ええっ!? そんな……っ」
「戻りたければ、やるしかない。さあ、使うんだ」
ジリ、と詰め寄られる。反射的にあとずさり、白い壁に背中がぶつかった。
「……服の上からでもいいですか」
バイブを握りしめてうつむく。いくらなんでも彼に大切な場所をさらすわけにはいかない。社長は一見すると常識人のように見えたから、愛莉の要求をのんでくれると思っていた。
「服の上からでは使用感が違うだろう。別にきみの秘部を見せろと言っているわけではない。下着の中に突っ込めばいい」
あいた口が塞がらない。そうだ、この人は極道なのだ。一般人の常識などでははかれないのかもしれない。
「でも、でも……その、社長の前では……恥ずかしいです。家に帰ってからではダメですか」
食い下がる。これでもダメなら彼の言うとおりにするしかない。
「……いいだろう。ただし、使用感を如実に記した報告書を提出するように」
ほっと胸を撫でおろす。彼は卑猥なことをするのが目的ではないようだ。ごく真面目に、自分の会社の商品を試させたいだけなのだ。
愛莉は「はい」と短く返事をして、愛想の欠片もない社長を見上げた。