社長の碓氷とルームシェアをはじめて数日が経ったある日の夕方、碓氷と蜷川はまたしてもふたりで連れ立ってどこかへ出かけてしまった。
愛莉は事務所を出て行くふたりのうしろ姿を見送りながら、向かいのデスクで帰り支度をしている塩野谷に話しかける。
「あの、塩野谷さん。社長と蜷川さんって、その……どういう関係なんでしょうか。よくふたりでお出かけになってますよね。なんだかすごく親しそう」
「ん? ああ……まあ、ふたりは特別な関係だよね」
「え……っ!? それって、どういう――」
愛莉が身を乗り出したときだった。塩野谷は携帯電話を片手に持って、
「あ、ごめん電話だ。彼女から」
ニヤニヤしながら電話にでる塩野谷。デートの約束をしていたようで「今からすぐに行くねん!」と気味の悪い猫なで声を発しながら愛莉に手を振って、そそくさと帰ってしまった。
(特別な関係って……そんな……)
モヤモヤした気分のままオフィスの3階へ向かう。碓氷が帰ってきたら、今度こそきちんと聞いてみよう。悩んだ挙句にようやくそう決意したのに、ほどなくして彼から送られてきたメールにはしばらく家を空けるという旨が書かれていた。
それからさらに数日後の夜、愛莉は碓氷に誘われてグループ会社合同の飲み会に赴いた。定期的に開催されている宴の席だ。愛莉は広い座敷の隅のほうに碓氷と一緒に並んで座っていた。
「会社以外でお会いするの、久しぶりですね」
「ああ、そうだな……。今日もそっちには帰れないんだが、ひとりで平気か?」
「……大丈夫、ですよ」
ここのところ碓氷は多忙なようだった。実家に寝泊まりして、本社の社長である彼の父親と仕事の話をしているらしい。内容までは語ってくれず、こちらからも聞かなかった。
「あ……っ、嶋谷さん!」
遠くから名前を呼ばれて振り向く。声の主は本社にいたときの後輩、今藤 静香だった。そういえば以前、わざわざいまの会社まで忘れ物を届けに来てくれたこともあった。
「おとなりいいですか?」
「うん、もちろん! あ、碓氷さん。こちらは本社勤務の今藤さんです」
「……どうも」
碓氷はどことなく不機嫌そうに言った。碓氷が名乗らないので、愛莉が彼を紹介する。静香はコワモテの碓氷に少したじろいているようだった。
「ところで嶋谷さん、いまはどんなお仕事をなさってるんですか?」
「へっ!? ああ、えーと……」
言いよどむ。大人のおもちゃを販売する会社だとは言いづらかった。何かうまいことごまかせないかと言葉を探る。
「……言いたくないのか? 嶋谷くん」
左どなりにあぐらをかいて座っている碓氷がうなるように言った。愛莉はそんな彼を見て萎縮する。不機嫌どころではない、完全に怒っているようすだった。愛莉がいまの仕事内容をすぐに答えなかったからだろうか。
「あ、の……その」
静香は愛莉たちのやりとりを見て何か察したのか、
「あっ、そうだ……嶋谷さん、私の同期が結婚することになったんですよ!それで――」
気を遣って話題を変えてくれたようだった。愛莉は「うん、うん」と相づちを打ちながら後輩の話に耳を傾けていた。すると、
「……俺は先に失礼する」
唐突に席を立った碓氷は、すぐにスタスタと出口のほうへ歩いて行ってしまった。
「あ……お疲れ様でした」
うしろ姿にそう呼びかけながら、愛莉はまたひとつモヤモヤとしたものを心に抱えるのであった。
グループ合同の酒宴があった翌週のはじめ、朝いちばんに社長室へと呼び出された愛莉は、デスクの上に差し出された白い紙切れを見つめて呆然としていた。デジャヴだ。ついこのあいだも同じようなことがあったばかりだ。
「来月いっぴづけで本社に転籍だ」
デスクの向こうにいる社長は背もたれに身体を預け、腕と脚を組んで淡々と愛莉に告げた。
「え、あの……。まだ、この会社にきて間もないと思うんですけど、もう……?」
「ああ。たびたびの異動で申しわけない。話は以上だ。俺はいまから本社に行ってくる」
「あ……っ、碓氷さん」
「なんだ?」
椅子から立ち上がって支度をはじめた彼をつい呼び止めてしまった。
(もしかして、この間の飲み会で私が業務内容を言わなかったから……?)
そう尋ねようと思ったのに、なかなか言葉が出てこない。肝心なときにはいつもこうだ。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
なぜかべつの言葉を発してしまい、愛莉は頭を下げた。碓氷は「ああ」とだけ答えて部屋を出て行ってしまった。
(来月からって……もうあと3日しかないじゃない)
本社への転籍辞令を手に取りながら、この会社に来て愛莉は何をしていたのだろうと考えた。
いつだったか、碓氷は言っていた。売り上げに貢献できるまで本社には戻さない、と。どうプラスに考えても、愛莉はまだ何の成果も上げられていない。
(本社に戻れるのに……なんでこんなに悲しいんだろう)
その答えはすぐに見つかった。碓氷といっしょにいられなくなるから寂しいのだ。
家に帰れば会えるかもしれないけれど、いまのところ愛莉はオフィスの3階にひとりで住んでいるようなものだ。閑散とした広いリビングで彼との関係を憂いては、いつも もの悲しくなる。
(だめだめ、こんなんじゃ……あと3日、やれることをきちんとやろう)
愛莉は両頬をバチンと叩いて事務所へ戻り、自分の席に座った。ポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかける。相手は本社勤務の後輩である静香だ。
「もしもし、急にごめんね。いまいいかな?――うん、うん。ありがとう。じつはちょっと見てもらいたいホームページがあって……うん、そう。URLは――」
愛莉は不思議そうな眼差しを向けてくる蜷川と塩野谷に対して曖昧に笑いながら、静香との会話を続けた。
***
3日後、鬼畜な御曹司が社長をつとめる会社での勤務最終日。
愛莉は碓氷に一枚のレポートを提出した。デスクに置かれたその紙を手に取った碓氷はわずかに目を見ひらく。
「……ホームページの改善案、か。この内容……複数の人間に見てもらったのか?」
愛莉は「はい」と返事をしながらうなずいた。本社時代の同僚や後輩にいまの会社のホームページを見てもらい、意見を募ったのだ。恥ずかしい思いがまったくなかったわけではないけれど、少しでもいまの会社に貢献したいと願っての行動だった。
「……ふむ。意見箱の設置に、もう少し淡い配色のデザインか。なるほど」
碓氷は何度も首を縦に振りながら愛莉のレポートを読み進めている。
「――さっそく要に伝えるとしよう。嶋谷くん、ありがとう」
彼の口もとがわずかにほころぶ。愛莉はそれだけで嬉しくなって、けれど寂しさも沸き起こってあやうく涙をこぼしそうになってしまった。お礼を言われたのに、同時にもうこれでおしまいなのだと痛感してしまった。
「いままで、ありがとうございました。失礼します」
要に電話をかけはじめた碓氷に深々と頭を下げ、愛莉は涙をこらえながら社長室をあとにした。
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愛莉は事務所を出て行くふたりのうしろ姿を見送りながら、向かいのデスクで帰り支度をしている塩野谷に話しかける。
「あの、塩野谷さん。社長と蜷川さんって、その……どういう関係なんでしょうか。よくふたりでお出かけになってますよね。なんだかすごく親しそう」
「ん? ああ……まあ、ふたりは特別な関係だよね」
「え……っ!? それって、どういう――」
愛莉が身を乗り出したときだった。塩野谷は携帯電話を片手に持って、
「あ、ごめん電話だ。彼女から」
ニヤニヤしながら電話にでる塩野谷。デートの約束をしていたようで「今からすぐに行くねん!」と気味の悪い猫なで声を発しながら愛莉に手を振って、そそくさと帰ってしまった。
(特別な関係って……そんな……)
モヤモヤした気分のままオフィスの3階へ向かう。碓氷が帰ってきたら、今度こそきちんと聞いてみよう。悩んだ挙句にようやくそう決意したのに、ほどなくして彼から送られてきたメールにはしばらく家を空けるという旨が書かれていた。
それからさらに数日後の夜、愛莉は碓氷に誘われてグループ会社合同の飲み会に赴いた。定期的に開催されている宴の席だ。愛莉は広い座敷の隅のほうに碓氷と一緒に並んで座っていた。
「会社以外でお会いするの、久しぶりですね」
「ああ、そうだな……。今日もそっちには帰れないんだが、ひとりで平気か?」
「……大丈夫、ですよ」
ここのところ碓氷は多忙なようだった。実家に寝泊まりして、本社の社長である彼の父親と仕事の話をしているらしい。内容までは語ってくれず、こちらからも聞かなかった。
「あ……っ、嶋谷さん!」
遠くから名前を呼ばれて振り向く。声の主は本社にいたときの後輩、今藤 静香だった。そういえば以前、わざわざいまの会社まで忘れ物を届けに来てくれたこともあった。
「おとなりいいですか?」
「うん、もちろん! あ、碓氷さん。こちらは本社勤務の今藤さんです」
「……どうも」
碓氷はどことなく不機嫌そうに言った。碓氷が名乗らないので、愛莉が彼を紹介する。静香はコワモテの碓氷に少したじろいているようだった。
「ところで嶋谷さん、いまはどんなお仕事をなさってるんですか?」
「へっ!? ああ、えーと……」
言いよどむ。大人のおもちゃを販売する会社だとは言いづらかった。何かうまいことごまかせないかと言葉を探る。
「……言いたくないのか? 嶋谷くん」
左どなりにあぐらをかいて座っている碓氷がうなるように言った。愛莉はそんな彼を見て萎縮する。不機嫌どころではない、完全に怒っているようすだった。愛莉がいまの仕事内容をすぐに答えなかったからだろうか。
「あ、の……その」
静香は愛莉たちのやりとりを見て何か察したのか、
「あっ、そうだ……嶋谷さん、私の同期が結婚することになったんですよ!それで――」
気を遣って話題を変えてくれたようだった。愛莉は「うん、うん」と相づちを打ちながら後輩の話に耳を傾けていた。すると、
「……俺は先に失礼する」
唐突に席を立った碓氷は、すぐにスタスタと出口のほうへ歩いて行ってしまった。
「あ……お疲れ様でした」
うしろ姿にそう呼びかけながら、愛莉はまたひとつモヤモヤとしたものを心に抱えるのであった。
グループ合同の酒宴があった翌週のはじめ、朝いちばんに社長室へと呼び出された愛莉は、デスクの上に差し出された白い紙切れを見つめて呆然としていた。デジャヴだ。ついこのあいだも同じようなことがあったばかりだ。
「来月いっぴづけで本社に転籍だ」
デスクの向こうにいる社長は背もたれに身体を預け、腕と脚を組んで淡々と愛莉に告げた。
「え、あの……。まだ、この会社にきて間もないと思うんですけど、もう……?」
「ああ。たびたびの異動で申しわけない。話は以上だ。俺はいまから本社に行ってくる」
「あ……っ、碓氷さん」
「なんだ?」
椅子から立ち上がって支度をはじめた彼をつい呼び止めてしまった。
(もしかして、この間の飲み会で私が業務内容を言わなかったから……?)
そう尋ねようと思ったのに、なかなか言葉が出てこない。肝心なときにはいつもこうだ。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
なぜかべつの言葉を発してしまい、愛莉は頭を下げた。碓氷は「ああ」とだけ答えて部屋を出て行ってしまった。
(来月からって……もうあと3日しかないじゃない)
本社への転籍辞令を手に取りながら、この会社に来て愛莉は何をしていたのだろうと考えた。
いつだったか、碓氷は言っていた。売り上げに貢献できるまで本社には戻さない、と。どうプラスに考えても、愛莉はまだ何の成果も上げられていない。
(本社に戻れるのに……なんでこんなに悲しいんだろう)
その答えはすぐに見つかった。碓氷といっしょにいられなくなるから寂しいのだ。
家に帰れば会えるかもしれないけれど、いまのところ愛莉はオフィスの3階にひとりで住んでいるようなものだ。閑散とした広いリビングで彼との関係を憂いては、いつも もの悲しくなる。
(だめだめ、こんなんじゃ……あと3日、やれることをきちんとやろう)
愛莉は両頬をバチンと叩いて事務所へ戻り、自分の席に座った。ポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかける。相手は本社勤務の後輩である静香だ。
「もしもし、急にごめんね。いまいいかな?――うん、うん。ありがとう。じつはちょっと見てもらいたいホームページがあって……うん、そう。URLは――」
愛莉は不思議そうな眼差しを向けてくる蜷川と塩野谷に対して曖昧に笑いながら、静香との会話を続けた。
***
3日後、鬼畜な御曹司が社長をつとめる会社での勤務最終日。
愛莉は碓氷に一枚のレポートを提出した。デスクに置かれたその紙を手に取った碓氷はわずかに目を見ひらく。
「……ホームページの改善案、か。この内容……複数の人間に見てもらったのか?」
愛莉は「はい」と返事をしながらうなずいた。本社時代の同僚や後輩にいまの会社のホームページを見てもらい、意見を募ったのだ。恥ずかしい思いがまったくなかったわけではないけれど、少しでもいまの会社に貢献したいと願っての行動だった。
「……ふむ。意見箱の設置に、もう少し淡い配色のデザインか。なるほど」
碓氷は何度も首を縦に振りながら愛莉のレポートを読み進めている。
「――さっそく要に伝えるとしよう。嶋谷くん、ありがとう」
彼の口もとがわずかにほころぶ。愛莉はそれだけで嬉しくなって、けれど寂しさも沸き起こってあやうく涙をこぼしそうになってしまった。お礼を言われたのに、同時にもうこれでおしまいなのだと痛感してしまった。
「いままで、ありがとうございました。失礼します」
要に電話をかけはじめた碓氷に深々と頭を下げ、愛莉は涙をこらえながら社長室をあとにした。