般若部長の飼い猫 《 第六話  無自覚なデート

よく晴れた初夏の日曜日、午前10時という休日の早い時間に上司と顔を合わせなくてはいけないのはいったい何の不運だろう。
薄手の落ち着いた風合いのジャケットを着た部長とともに電車に揺られ、なぜか映画館に到着していた。
ろくに会話もせず、部長はさっさとチケットを買っている。

(部長って、なにを考えてるのかイマイチわかんない)

このあいだ、会社で下半身を触られてからも、部長はその翌日、なに食わぬ顔で理沙の家に夕飯を食べにきていた。
理沙にとってはとんでもないことだったのに、部長にとっては何でもないことなのだろうか。
そんな事を考えながら、何の映画を見るのかもよくわからぬまま座席に着くと、旬の俳優が主演の恋愛ものだった。

(これ、私が観たいと思ってたやつだ)

予告のテレビCMが流れるたびに、DVDが出たら観ようと思っていた。
お金がないから映画館では無理かな、とあきらめていたから、ラッキーだ。
理沙は部長が買ってくれたアップルジュースを飲みながら映画にのめり込んだ。


「あー、やっぱりおもしろかった! 部長もアレ観たかったんですか?」

映画館からほど近いカフェに入ったふたりは向かい合って座り、運ばれてきたハンバーグランチを食べていた。
部長と一緒に食事をするのはもはや日常茶飯事だけれど、外食するのは初めてだ。

「……観たいわけないだろう。思いのほかおもしろかったが」

「ですよねー! ホント、いち早く観れてよかった! ありがとうございました」

「……おまえに礼を言われると、気味が悪いな」

ホント、このひとは何でこういちいち口が悪いんだろ。しかしランチがおいしいおかげで気にならない。

「それで、服はいつもどこで買ってるんだ」

ハンバーグが残り少なくなったところで、部長はあいかわらずの無表情で尋ねてきた。

「えっと、熊通り沿いの……っあ!」

「何だ、突然 大声出して」

「きらら! 大丈夫なんですか、家にひとりで……じゃないな、一匹で置いて……。っていうか、仕事中はどうしてるんですか」

熊通りで猫を思い出すのはおかしいけれど、きららが気になったので尋ねた。

「弟にきてもらっている。近くに住んでるんでな」

「弟さん、いらしたんですか。あれ、でも弟さんもお仕事あるんじゃ……」

「大学二年でヒマをもてあましてるから、世話を頼んでる。アイツも相当な猫好きだからな」

家族のことを話す部長は、どこか優しげに見えた。

(大学二年ってことは……私よりひとつ年下か)

「ご兄弟はおふたりだけですか?」

「そうだ。……何だ、その気色悪いほほえみは」

「や、明らかに女の子の兄弟がいなくて育ったって感じだなぁと思って」

「どういう意味だ」

「深い意味はないです。さ、早く食べて買い物に行きましょう」

部長はまだなにか言いたげだったけれど、理沙がまた食べ始めたからかそれ以上はなにも言わなかった。

ランチを終えたふたりは理沙がいつも買い物をする店へ歩いて移動した。
部長と一緒にアパレルショップに入るのは妙な感じがする。

「あら、理沙ちゃん。今日はデートですか?」

馴染みの店員が開口一番にそう言ってきた。

(まさか! デートなわけない)

しかし、映画を観てご飯を食べて……これはやはりデートなのだろうか。
このひとはただの上司なんです、と店員に説明するのもおかしな気がしたので、理沙はあいまいに笑ってやり過ごした。 はい、デートです、などと言って部長に否定されても困る。

適当に店員と会話したあと、理沙は服を選び始めた。

「あっ、これ新入荷のやつだ! かわいい~っ」

「却下だ。こっちにしろ」

部長が指差したのは年齢が5つくらいは老けそうな感じのスーツだ。

「ええーっ、ヤだ、地味」

「すみません、これください。あとこっちのも。それと……」

「ちょっと! ぶちょ……んむっ」

突然、口もとを塞がれてそのまま頭を引き寄せられた。

「社外では呼ぶな」

とても小さなささやき声なのに、なぜか頭に響く。
部長の体温と声が身体中を震わせているように感じられて、不意にあのときの、彼に下半身をさわれられたときのことを思い出してしまい、手足の先がジンと熱くなった。

「じゃあ、般若って呼びますよ」

顔も熱くなっているのを悟られまいと、理沙は平静を装ってつぶやいた。部長の手はすでに理沙から遠のいている。
なにも言わないまま、部長は理沙の服を勝手に選んでレジへ行ってしまった。


理沙が入ったこともないようなレストランで早めの夕食を取り、帰宅したのは19時過ぎだった。

「あの、お金……本当にいいんですか? 私、今日はなにも払ってないんですけど」

購入した服を玄関まで運んでくれた部長を見上げる。
夕食はメニューに値段が書いてないような店だったから、少し緊張してしまった。料理は本当においしくて、理沙がいつも部長に食べさせているものとは雲泥の差だった。
部長は舌が肥えているんだろうと思ったけれど、そうなると理沙の手料理をおいしいと言って食べてくれるのがなおさら、不思議だ。

「……そうだな、もらっておくか」

理沙はハッとして部長を見すえた。考えごとをしていて少しうつろになっていたところに、彼の腕が伸びてきた。
トン、と理沙の頭と部長の両腕が玄関の壁にほぼ同時に音を立てる。
ダウンライトの昼光色に照らされた部長の顔は穏やかなようにも見える。

「えっと、じゃあ、お金を……」

もらっておく、と言われたのだから、支払わねば。

「……っん! ん、ふ……っ」

あごをつかまれて、ダウンライトの光が瞬く間に見えなくなる。
部長の顔が間近にあって、唇を塞がれているから息苦しい。

「あ、の……ぁっ」

ちゅぷ、ちゅぷ、と何度も唇を食まれる。腕に力が入らない。
部長の口付けが身体を痺れさせているようだった。動けない。
唇は執拗に啄ばまれて、次第に口腔が潤ってくる。けれど、あごに添えてあった彼の手がいつの間にか移動して胸もとをかすめた瞬間、理沙は身体を大きく跳ねさせた。
肌に針を刺したように感覚を取り戻して、彼の胸を両手で押しのけていた。

「あ、の、わた、し……」

男性に身体を、特に性的な部分をさわられたことがないのだと、告白してもいいものか。

(ううん、そんな告白をして、私はどうするつもりなんだろう……)

理沙は自分が無意識に頭を横に振っていたことにあとから気が付いた。この仕草を見て、部長はどう思っただろう。

「……おやすみ」

顔を合わせられなかった。
うつむいたまま彼の声を聞き、玄関扉が閉まっても、理沙はなにも言えなかった。

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