ひきこもり令嬢は囚われの貴公子に溺愛される 《 第一章 ひきこもり令嬢のたくらみ 03

「うんうん、その意気だ。では、ジャムを頼むよ」
 リルは「はいはい」と返事をして立ち上がる。
 キッチンでミックスベリージャムを小瓶に詰めていると、玄関のドアノッカーがコン、コンと控えめに鳴った。
 リルはロランがやってきたときと同じように返事をして玄関へ歩いた。
「こんにちは、レディ・マクミラン」
「ご機嫌うるわしゅうございますか、マレット男爵」
 レディのお辞儀をして、太陽のような髪色をした男性を屋敷のなかへ招き入れる。リルの家は貴族の邸宅らしからぬワンルームだ。メイドもいないこの屋敷では無駄にいくつも部屋があったところで掃除が大変だから、リルの希望でそうなっている。
 ロランは屋敷のなかに入ってきたマレット男爵を見て、ティーカップをソーサーに戻して立ち上がった。
「リル、紹介してくれるかい」
 ロランに言われ、リルはふたりを順番に紹介する。
「こちらはフランシス・マレット男爵です。私の薬を買い取ってもらっています。マレット男爵、こちらは私の兄でロラン・マクミラン、トランバーズ伯爵。今日は私が調合した毛――け、健康増進薬を取りにきていたところです」
 あやうく「毛生え薬を取りにきた」と口を滑らせてしまうところだった。マレット男爵はリルが言い直したことをとくに気にしているようすはない。ロランのほうも顔色は変わらないが、ぴくんと眉が動いたのをリルは見逃さなかった。
 マレット男爵が緑色の瞳を細めて微笑する。
「そうですか。レディ・マクミランの薬はとてもよく効くと、わが商会内でも評判です」
 ロランもマレットに合わせて顔をほころばせる。
「それは、僕も鼻が高い。さあどうぞ、お座りください」
 マレットに席をすすめたロランは席を立ち、キッチンで茶を淹れるリルのもとへ向かった。小声で彼女に話しかける。
「リル、あれはマレット商会の御曹司じゃないか」
「なあに、彼を知っていたの? だったら紹介する必要なんてなかったじゃない」
「いや、直接の知り合いではない。おそらく向こうも僕のことを知っていたとは思うが。まあ、きみは何年もこの森に引きこもっているから知らないのも無理はないか。彼、相当のやり手だよ。マレット商会はここ数年で急激に業績を伸ばしている。彼がマレット商会の実質的な経営権を握ってから、急に」
「へえ、そうなの」
「……リル、彼になにかされたりしていないだろうね」
 ロランの声がいっそうひそまった。リルは怪訝な顔をして尋ね返す。
「なにかって、なによ」
「いや、たとえばその……なにか、性的なことだよ」
「べつになにも。週に一度ふらりとやってきて、お茶を飲んで薬を持って帰って行くわ」
「ふうん……」
「それよりもお兄様、早くお帰りになったら? カトリオーナがあなたの帰りを待っているでしょう。奥様もね」
 兄の背をぐいぐいと押して玄関へ誘導する。マレットのためのハーブティーはいま蒸らしているところだ。
「あ、ああ……。それじゃあ僕はこれで失礼するよ」
 ロランはマレット男爵に社交辞令的な挨拶をして玄関扉を開けた。
「あ、お兄様。先ほどの件、くれぐれもよろしく」
「わかっている」
 ひらひらと手を振る兄の姿を見送り、キッチンへ戻る。
「レディ・マクミラン。先ほどの件とは? 聞いてもよろしいですか」
 ソファに座るマレットの前にハーブティーとスコーンを出していると、そう尋ねられた。玄関とこのソファはけっこう離れているのに聞こえていたのか、と驚きつつ答える。
「あ……、ええ。じつは来週、仮面舞踏会に行くことになったんです」
「へえ、そうですか。それは、楽しそうですね」
「いいえ、ちっとも。この髪の毛をどうにかしなくてはいけない」
「髪の毛をどうするんです?」
「べつの色に染めなくては。いまの色では……悪目立ちするので」
 長い黒髪を指に絡めて、それから耳にかけた。向かいに座るマレットはとくに表情を変えずリルの髪の毛を見つめている。
「ああ、それならいい染め粉がありますよ。そうだな……。舞踏会の前日にでも、俺の屋敷に寄ってもらえませんか。髪の毛を染めて差し上げます」
「えっ、よろしいのですか? でも、ご迷惑では……」
「とんでもございません。いつもよい薬をいただいているので、ほんのお礼です」
 マレットはいつもそういう丁寧な口調だ。しかし彼の表情は固く、決して怒った顔をしているわけではないがどこか社交辞令的なのだ。彼の個性なのかもしれないけれど――それがマレットの本心なのかと、正直なところ少し疑ってしまう。
(でも、失礼よね……。いつもよくしてくださるのに、そんなふうに疑うなんて)
 疑心暗鬼なところがあると自覚している。リルは自己嫌悪に陥り、秘かにため息をついた。

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