ひきこもり令嬢は囚われの貴公子に溺愛される 《 第一章 ひきこもり令嬢のたくらみ 05

「私の家に飾るよりも、マレット男爵のお屋敷にあるほうがこの絵も映えますし、ね。お心遣いだけ頂戴いたします」
 マレットはなにか言いたげに口をひらいたが、
「おお、これはマレット男爵」
 廊下の角から、見知らぬ中年の男性が顔を出した。マレットが微笑して頭を下げる。商談相手のようだ。こちらへ近づいてきて、彼となにやら話し始めた。
「――では、なにもない屋敷ですがどうかごゆっくりとお過ごしください」
 マレットがそう言うと、中年の男は満足げな笑みを浮かべて「うむ」とうなずいた。従者をともなってリルのとなりを通り過ぎていく。
 軽く会釈をすると、男は珍しいものを見るような目をして去っていった。
 まるでこの家の珍品にでもなったような心地だ。
(まあ、もう慣れっこだけどね……)
 好奇の目を向けられるのには慣れているが、それでもやはり少しこたえる。リルはうつむいていた。
「レディ・マクミラン。髪を染める前に湯浴みをしましょう。お背中をお流しします」
「は――いっ!?」
 ぼうっとしていたところに持ちかけられ、思わず「はい」と言ってしまうところだった。いや、言葉をつなげれば快諾したことになってしまうが。
「……冗談です」
 あわてるリルを見つめ、マレットはどこか意地悪くほほえんでいる。
「も、もう……」
 リルは憤然と鼻から息を吐き、しかし彼のおかげでなんとなく気は晴れたので、小さな声で「ありがとうございます」とつぶやいた。


 リルの背中をマレットが流すというのは冗談だったが、湯浴みは本当だった。
 食堂で晩餐をともにしたあと、屋敷の風呂を借りて湯浴みしたリルはゲストルームとおぼしき一室でマレットにくしで髪を梳かれていた。水気をよく吸う、厚く柔らかな布で長い黒髪を拭いてもらったあとだ。
(こんなことまでしてもらって……。本当、申し訳ない)
 ネグリジェのうえに薄布を羽織って椅子に座るリルの髪の毛に、マレットはうしろから丁寧にくしを通している。
「あなたの髪の毛は本当によい色をしている。染めてしまうのがもったいない」
「あ……ありがとう、ございます」
 マレットは珍しいものが好きだから、この髪色にも寛容なのだろう。髪の毛に触れられているのがどうもくすぐったい。まだ染めないのだろうかとそわそわしてしまう。
「それでは、青い染料で染めていきます。この染料は湯に濡れると溶け出しますから、お気をつけ下さい。まあ、舞踏会で湯に触れる機会などないとは思いますが」
 目の前に置いてある鏡を見つめる。マレットは刷毛《はけ》のようなものでリルの髪の毛を根もとから青に変えていった。
「さて、これでよし。少し時間を置けばすぐに乾きます」
 鏡に映っているのはいったい誰なのだろう。
 じつは初めて髪の色を変えた。
 髪を染めるのは自分を偽るようで嫌だ――そう、兄には言ったものの、鮮やかな青い髪の毛は透き通るように美しく華やかだ。
(これが、私……?)
 惚けていると、紅い瞳と目が合った。リルは視線を落とす。青い髪の毛に紅い瞳はいっそう際立って、まがまがしく見えた。
「――マレット男爵、なにからなにまで本当にありがとうございました。それで……あの、やっぱり私は兄のところへ行きます。寝床までお借りするのは、さすがに申し訳ないですから」
 ゲストルームでそのまま休むようマレットに言われたリルだが、多忙な彼に髪まで染めてもらった。
 もともと髪を染めてもらいにきたわけだが、染料だけをもらって自分でやるつもりでいたから、さすがにこれ以上、世話になるわけにはいかないと思った。
「……俺のこと、警戒してるんですか?」
「え? いえ、そういうことではなくて……。このお屋敷にはたくさんのお得意様がお訪ねになるのでしょう? 私がひとりでゲストルームを使うのは忍びないというか」
「あなただってお得意様ですよ。でもまあ、そうおっしゃるなら……。俺の寝室で、一緒に眠りますか?」
 青に染まったばかりのリルの髪の毛がなびく。マレットに手首をつかまれたリルはそのまま強引にゲストルームを連れ出された。
(え、え……っ!? ちょっと待って、どうしてそうなるの)
 もしかしたら彼の寝室にはベッドがふたつあるのかもしれない。ゲストルームを使うよりは気兼ねしないだろうと、そういうことなのかと無理やり納得する。
 しかし彼の寝室に着くなりその考えはすぐさま否定された。寝室のベッドは豪奢でとても大きいが、ひとつだけだ。

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