ひきこもり令嬢は囚われの貴公子に溺愛される 《 第一章 ひきこもり令嬢のたくらみ 06

「……では、俺は湯浴みしてきます。先に寝ていてください。おやすみ、レディ・マクミラン」
「あっ、あの、ちょっと待っ……!」
 パタン、と寝室の扉が静かに閉まる。リルは行き場のない手をゆっくりと振りおろした。
(寝ていて、って……言われても)
 あらためてベッドを見つめる。先日、兄のロランに言われたことがどうしてかいま頭のなかにぽんっと浮かび上がった。
『なにか性的なことをされていないか――』
 足先からだんだんと熱が込み上げてきて、耳まで真っ赤に染まる。
(いや、まさか……。そんな、マレット男爵に限って)
 彼とは森の家でいつもふたりきりだ。おいしそうに茶を飲み、薬を抱えてなにごともなく帰っていく。寝室をともにしたところでなにかあるとは思えない。
(で、でも……。同じベッドで、なんて……。非常識だわ)
 先にベッドに入る気にはなれず部屋のなかを見まわす。
 茶色い板張りの床に土壁というのは屋敷の外観や廊下、先ほどのゲストルームと同様だ。外国に連れてこられたような気分になってしまう。
 どうにも落ち着かない。部屋のなかをうろうろとしていると、湯上りのマレットが戻ってきた。
「起きていらっしゃったんですか」
「あ、え、ええ……」
 マレットはもの珍しいナイトガウンを着ている。袖が広く、裾はくるぶしのあたりまである。腰に巻かれている紐も、ふつうのものよりも太い。
「ああ……。これは浴衣というものですよ」
 リルはマレットの紺色の衣服から彼の顔へと視線を移した。ぱちりと目が合う。マレットのオレンジ色の髪の毛はまだ少し濡れていた。肩につくかつかないくらいの長さの髪先から雫がにじんでいる。
「髪の毛、まだ濡れていらっしゃいますよ」
「……そうですね。拭いてくださいますか」
「なっ!?」
 なぜ彼の髪の毛を拭かなければならないのだ。そうは思えど、リルは先ほどマレットに髪を染めることまでしてもらった。ゆえに断れない。
「あ、わ、わかりました。ええと、なにか拭くものは……」
「これを、どうぞ」
 クローゼットとおぼしき場所からタオルを取り出したマレットは大きなベッドの端に腰かけた。無言でタオルを差し出してくる。
(いまからでもお兄様のところへ行くほうがいいかしら……)
 なんだか雲行きが怪しい気がしてきた。このまま本当に「なにか」されてしまったらどうしよう――。
「……どうかなさいましたか?」
「いっ、いえ」
 不安に思いながらも、リルは手ざわりのよいタオルを受け取りマレットのとなりに腰をおろした。
 ふかふかのタオルを手にしたリルは腕を思い切り伸ばして彼の髪の毛を拭いた。そうしなければ、届かなかった。
「……レディ・マクミラン」
「は、はい?」
「なんというか……。拭くのが下手ですね」
「……っ!」
 リルは眉根を寄せてぱくぱくと不満げに口を動かした。
「こ、これでも頑張ってるんです。あなたは背が高いから、こうして腕を伸ばさなければ届かないし」
「もっと俺の近くに寄ればいいんじゃないですか」
「ひゃっ!?」
 ぐいっ、と腕を引かれた。ひとひとりぶんは空いていたふたりの距離が大きく縮まる。リルは彼に抱きつくような体勢になってしまった。
「……っ、あの、マレット男爵。なにをお考えなんですか?」
「なにを、と申されますと?」
「だ、だから……その」
「なにも考えていませんよ。ただ、あなたに髪の毛を拭いてもらいたいだけ」
 マレットはそう言いながら立ち上がり、しかしすぐにまた腰をおろした。ベッドではなく、板張りの床うえに。
 リルは唖然と彼を見おろす。
「マレット男爵? なぜそんなこところに」
「これなら、拭きやすいでしょう? どうぞ。お願いします」
 リルは「ええ、まあ」と返事をして、ふたたび彼の頭をタオルで拭き始めた。
(……つかめないひとだわ)
 どれくらいそうしてマレットの髪の毛を拭いていたのかわからない。「もうよろしいですか」と聞いても「まだ乾ききっていない」と言われてしまい、ずるずると彼の頭に触れていた。

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