ひきこもり令嬢は囚われの貴公子に溺愛される 《 第一章 ひきこもり令嬢のたくらみ 10

「……申し訳ございませんでした」
「いえいえ、どうかお気になさらず。僕が勝手に付き添ったんですから。少し待っていてください。水をもらってきます」
 胃のなかのものをひととおり戻し終えたリルは、颯爽と走り去っていく王子を呆然と見つめた。
(とんでもなくいいひとね……)
 彼が令嬢たちに人気があるのは納得だ。底抜けに優しい。ただ、なんとなく想像とは違った。なにが違うのかはっきりとはわからないが、そう思った。
 ハンカチで口もとを押さえてうつむいていると、間もなくして王子が戻ってきた。手には水が入ったワイングラスを持っている。
 リルは礼を述べながらそれを受け取り、はしたないとは思ったがのどが渇いていたのでいっきに飲み干した。
「ご気分はいかがですか?」
「はい、さっきよりは……格段にいいです」
「そうですか、よかった。少し庭を散歩しませんか」
 リルの手から空のグラスを受け取り、それとは別の手を王子はリルに差し伸べた。彼に引っ張り上げられるようにして立ち上がり、そのままふたりで歩き出す。
 臭気が漂うこの場所にいつまでもいたくないのはリルも同じだ。庭を汚してしまったことを、あとで主催者に謝罪しなければならない。
 吹き抜ける夜風は熱を帯びた頬にはちょうどよかった。酒はまだ体のなかに多分に残っているから、全身がどくどくと熱い。
 リルは王子に手を引かれ、無言でゆっくりと歩いた。
 仮面をつけているとはいえ王子の横顔は凛々しかった。鼻梁は高く一直線にとおっている。ダンスホールからの薄明かりに照らされた横顔――輪郭はとても美しく、まるで彫刻のように整っている。
 夜風で揺れる白金髪は一本一本が透きとおっているようだった。前髪は長めだが襟足は短く、清潔感がある。
 ふと、王子が立ち止まった。盗み見ていたのが知れてしまったのかと思い、うつむく。おずおずと尋ねる。
「あの……。ダンスは、よろしいのですか? ご令嬢がたがあなたをお待ちなのでは」
「ああ……少し踊り疲れてしまって。休憩しているんです」
「その、ごめんなさい。ご休憩中に、ええと……たいへんなご迷惑をおかけして」
「いいえ、とんでもない。それより、僕になにか用があったのではないですか」
 「え」と短く発して彼の顔をあおぎ見る。
「僕の思い違いかもしれませんが、ずっとあなたの視線を感じていた」
「……っ」
 王子は視線に敏いらしい。もしかしたらダンスホールでも、不躾なほど彼を見つめてしまっていたのかもしれない。
 ここまで醜態をさらしているのだからもうこれ以上のことはない。ひらき直ってリルは王子に乞う。
「あ、あなたの体液を……私に、ください!」
 カシャンッ、と鋭い音を立ててグラスが茂みのうえに落ちて割れた。仮面をつけているから表情はよくわからないが、きっと驚いている。口が半分だけぽかんと開いている。
 彼もまたリルの表情がわからないだろう。リルの目もとも、いまだに仮面に覆われている。
「――はは、おもしろいひとだね」
 くすくすと笑いながら王子が尋ねてきた。くだけた話し方になったせいか、彼の雰囲気が一変した。
「あたなのお名前は?」
「リル・マクミランです」
「僕は――……オーガスタス・クレド・ルアンブル。ええと、それで……なに? 僕の体液が欲しいって? ああ、もう敬語はやめよう、お互いに。僕のことは呼び捨ててくれてかまわない。僕もそうする」
 リルはこくりとうなずく。これだけくだけた話し方をされれば気を遣うのが馬鹿らしくなってくる。
「あなたの体液を搾取すれば若さを保てるって、占いで出たの。私は本気よ。あなたを誘拐する覚悟で、きたの」
 本当は誘拐などする気はないが、酒の勢いで脅しにかかっている。なかばやけにもなっている。
「誘拐か。それは願ってもない話だ」
「え?」
「ううん、こっちの話。あなたのこと、いろいろと教えてもらいたいな」
「いろいろ……って?」
「そうだな……。どこに住んでるのかとか、そういうこと」
「え、ええと――」

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