ひきこもり令嬢は囚われの貴公子に溺愛される 《 第五章 捜索と決別 02

 最小限の荷物をトランクに詰め込んで、玄関扉を開けたときだった。
「――っ!?」
 あまりに勢いよく扉を開けて外へ出たものだから、そこに誰かが立っているとは思いもせず、リルは扉の前にいた男にぶつかってしまった。
 額をさすりながらその男を見上げる。
「マレット、男爵……」
 いつになく険しい顔をしたマレットがそこにいた。
「お出かけになるのですか」
「え、ええ……」
「ならばちょうどいい。俺の屋敷にきてください」
 リルは「えっ?」と頓狂な声を上げてぱちぱちとまばたきをした。
「彼はルアンブル国のラスウェル公爵令息だったんです。旅人なんかじゃない。あなたは騙されていたんだ」
 どくっ、と心臓が大きく波打つ。
 マレットはオーガスタスがすでにこの屋敷にいないことを知っているようだ。
 リルはピンク色のトランクの取っ手をぎゅうっと握りしめてうつむく。返す言葉を探しているあいだに、マレットがたたみかけてくる。
「あなたのようにか弱い女性がこんな山奥にひとりで住むのはやはり危険だ。リル、どうか俺と一緒にきてください」
 トランクを引っ張られたが、両手は放さず首を何度も横に振る。
「ま、待って! 彼が、なんですって? 公爵……令息?」
「そうです。ラスウェル公爵の嫡男、オーランドだ。あのオッドアイは、間違いない」
 ――オーランド。
 そうだ、彼はしきりにそう呼ぶように言っていた。
(オーランドっていうのは、偽名じゃなくて本名だったの……?)
 呆然とするリルにマレットは真実を語る。
「彼が本名を語ってくれたおかげで、俺はラスウェル公爵からの使者にこの屋敷に彼がいることを教えることができた。ラスウェル公爵は、俺がルアンブル国の第一王子に衣服の代金を請求したことでオーランド殿の居場所に勘付いたようです。それにしても、家出とは……ぜいたくなことだ」
「ち、違います! オーガスタス……いえ、オーランドは私が勝手にこの屋敷に連れてきたんです。仮面舞踏会で出会って、誘拐してきた。それをあなたには知られたくなくて――嘘をついていた。……だから、騙したのは私のほう。ごめんなさい、マレット男爵」
 顔を上げ、まっすぐにマレットを見つめる。
「わたし……オーランドのことが、好き」
 リルのトランクをつかんでいたマレットの小指がぴくりと動き、しだいに力をなくして振り落ちる。
「俺のことは……名で呼んでくれないのですね」
 泣き出しそうな顔で眉尻を下げるマレットに、リルはどういう言葉をかければよいのかわからなかった。
「お気持ちは……すごく、嬉しいです。こんなに気にかけてくださって、申し訳ないくらい」
 社交辞令的な言葉しか出てこないが、ほかに言いかたが見つからない。
 マレットは「いいえ、そんな……」と消沈したようすでつぶやいた。
「……俺になにかできることはありますか?」
 ああ、どこまで気が利くひとなのだろう。しかし、頼れない。彼の好意をないがしろにした自分に、そんな権利はない。
「大丈夫です。ありがとう、マレット男爵。どうぞ、お気をつけてお帰りください。私は当分この屋敷には戻らないかもしれませんので……薬の件はまた追ってご連絡いたします」
 ごきげんよう、と付け加えて笑顔で手を振る。他人行儀な挨拶だとひとごとのように思った。
 マレットは哀しげに笑い、馬車に乗り込んだ。動き出した馬車が角を曲がって見えなくなるまで手を振り続ける。
(……さあ、行こう)
 目的地は兄であるロランの屋敷。
 馬車で行けばすぐだが、徒歩では――女性の足では半日はかかる。
(あ……そうだ、白馬)
 リルは前へ進みかけた足を戻して裏庭へまわり込んだ。白馬に近寄り、手綱をほどいて自由にする。
「好きなところへお行き。本当は、お兄様のところまで乗せていってもらいたいところだけど」
 リルは馬を操れない。どれくらいのあいだ家を空けるかわからないから、つないだまま飲まず食わずでは白馬がかわいそうだ。
 手綱がなくなっても、白馬はそこを動こうとしなかった。
 リルは白馬に呼びかけようとしたが、名前がないことにいまさら気がついた。
「……さようなら、オーガスタス」
 ほかに名前が思いつかなかった。白馬はどことなく彼に似ているから、その名がぴったりだと思った。
 ――私は、オーランドを捜しにいく。

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