ひきこもり令嬢は囚われの貴公子に溺愛される 《 第五章 捜索と決別 03

 名付けたばかりの白馬のたてがみをすうっと撫で、リルはきびすをかえす。
(陽が落ちる前に森を出なくては)
 空はどんよりと曇っているから太陽はそもそも出ていない。先ほど見た時計は正午をさしていた。日没までに森を抜けられるか、微妙なところだ。
(……やっぱり、マレット男爵に送ってもらえばよかったかしら)
 楽なほうに流れた考えを、ぶんぶんと首を振って自分自身で否定する。そう考えたところですでにあとの祭りだし、これは自分なりのけじめだ。
 リルは「ふんっ」と鼻息を荒くしてトランクを持ち直し、大股で森のなかを歩き始めた。
 ぽつっ、ぽつりとつめたい雨粒が頬を打ち始めたのは、屋敷を出て一時間ほどが経ってからのことだった。
 本降りになるまでそう時間はかからず、傘を持ち合わせていなかったリルはすぐにぐっしょりと全身が濡れてしまった。
(私としたことが……。こんな天気なのに傘を忘れるなんて)
 きっといま、平常心ではないのだと思う。彼に――オーガスタスに会いたくてたまらない。
 雨宿りをしている時間が惜しいので、かまわず進む。
 靴は山歩きに適したロングブーツだ。多少のぬかるみがあっても問題なく歩ける。ドレスのすそを持つのはやめた。雨粒が泥をはねて、すそはひどく汚れている。
(まるでドブネズミね)
 黒い髪の毛に薄汚れたドレス、そして紅い瞳。
 自嘲して微笑するさまはいよいよ「変わり者」だ。
 そんな変わり者に、声をかけてくるやからがいるとは思っていなかったのだが――。
「あれっ、お姉さん!? どうしたの、ずぶ濡れだよ!」
 幻聴でなければひとの声がした。降りしきる雨で視界は不明瞭だ。目をこらして声がしたほうを見ると、そこにはいつかの少年がいた。
 リルとオーガスタスが屋敷で介抱した、顔にそばかすのある金髪の少年だ。
「傘、忘れちゃったの? ほら、入りなよ」
「あ、ありがとう……」
 少年が持っていた傘は小ぶりだったが、彼もリルも小柄なのでなんとかふたり、おさまる。リルの肩は少しだけ濡れてしまうが、それでも雨をしのげるのには変わりなく、状況は格段によくなった。
「どこへ行くの?」
「街まで。兄のところへ行くの」
「へえ……。僕ももう帰るところだから、送っていってあげるよ」
「本当? ありがとう、助かるわ」
「このくらいなんてことないよ。お姉さんたちは命の恩人だし。ところで今日は王子様は一緒じゃないの?」
「ああ……ええと、その」
 リルはぽつり、ぽつりとありのままを話した。どうして子どもにこんな話をしているのだろう、と自分でも疑問だが、誰かに聞いてもらいたかったのだと思う。
「――え、なあに。じゃあお姉さんは、王子様に逃げられちゃったってこと?」
「え、ええ。まあ……そういうことになるわね」
「ふうん……。僕だったら、お姉さんみたいに綺麗なひとを置いていったりしないけどな」
「やだ、子どものくせに気なんて遣わなくていいわよ」
「子どもだから気なんて遣ってないよ。本当のことを言っただけ」
 少年は腕を垂直に伸ばして傘をさしたまま、そばかすだらけの顔をにいっとゆがませた。
 つられて、リルも「ふふっ」と笑う。
「ありがとう。王子様に置いていかれて少し気落ちしていたから……。なんだか気が晴れた。すっきりしたわ」
「そう、よかった。僕でよかったらいつでも話を聞くよ? そうだな、僕の薬を調合してくれたら、タダで聞いてあげる」
「なあに、ちゃっかりしてるわね」
「はは、冗談だよ」
 顔を見合わせて笑い合う。
 そうしてリルと少年は、街までの長い道のりを雨が降りしきるなか談笑しながら歩いた。


 リルと少年がロランの屋敷につく頃には雨はだいぶん小ぶりになっていた。
 ロランの屋敷の裏口で少年と向かい合う。リルは軒下、少年は傘をさしたままだ。
「それじゃ、お姉さん。よくわからないけど頑張ってね。近いうちに必ず僕の家に遊びに来て。ふたりそろって」
「ええ……。必ず」
 ふたりそろって、というのは守れないかもしれないと思った。そのときはまた彼に愚痴をこぼすことになってしまいそうだ。
(ううん、そんな弱気でどうするの)
 リルは小さく首を横に振って、自身を奮い立たせ、少年の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

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