言いなりオフィス・ラヴ 《 06

 得意先での打ち合わせを終えて会社に戻ったころには日が暮れていた。今日はまったく仕事がはかどらなかったから、週末ということもあってまだまだ雑務が残っている。
 ひとり、ふたりと帰宅していき、課には仁美と中村だけになった。課長は午後から出張で、係長はまだ外回りをしているらしく、不在だ。

(げ……。中村くんとふたりだけになっちゃった。もう帰ろうかな)

 部署内にはまだ何人も残っているから、変な要求をされることはないと思うけれど、この男のことだからわからない。仁美はそそくさと荷物をまとめた。

「主任、お先に失礼します」

 他人行儀にそう言って席を立つ。

「俺も帰るから、少し待ってて」

 一緒に帰るのがさも当然と言わんばかりにニッコリとほほえまれ、

(……なんで私がアンタを待ってなきゃいけないのよ!)

とは言えず、仁美は小さく「うん」とだけ答えた。


「中村くん、車通勤だったんだ?」

 駐車場に向かって歩く中村の少しうしろから仁美は口を開いた。彼とは身長差があって歩幅がだいぶん違うから、小走りする。それに気がついたらしく、中村は歩調をゆるめて仁美の隣に並んだ。

「俺のマンション、駅から遠いんだよね。でも景色はいいよ。柚子川さんの家は駅は近い?」

「歩いて5分。走れば4分」

「1分しか縮まってないね。あ、柚子川さんて走るの遅そうだもんね」

「失礼ね。もともと近いから、1分でも短縮できれば充分なのっ」

 そうこうしているうちに中村の車へ到着した。仁美はうながされるまま黒いセダンに乗り込んだ。スポーツタイプを予想してたのに、車の趣味は意外と渋い。

「……あの、私の家とは逆方向なんだけど」

 走り出してすぐのところで、仁美は帰路とはまったく異なる道を行く彼に正面を向いたまま話しかけた。

「そうなの? 俺の家はコッチだから」

「えっ、ちょっと……。なんで私が中村くんの家に行かなくちゃいけないの」

「きみを送って行くなんて俺は言ってないよ」

「私だって、中村くんの家に行くなんて言ってない」

「きみに拒否権はない」

 口ごたえするなとでも言うように語気を強められ、少しだけ怯む。

「中村くんって自分勝手なひとだったんだね。知らなかった」

「柚子川さんと一緒にいたいだけだよ。伝わらないかな、この真っ直ぐな愛情が」

(なにが愛情よ! おもしろがって遊んでるだけじゃない)

 それ以上は話をしたくなくて、仁美は窓の外に目を向けて押し黙った。中村もなにもしゃべらなかったから、車内には洋楽だけがきわ立って流れていた。


 中村のマンションに着いてもなお、仁美は抵抗を続けていた。

「私、やっぱり帰る」

「駅は遠いよ? 歩いたら30分はかかる」

「タクシーに乗るからいい」

 車を降りて歩き出すと、まわり込んで来た中村に手首をつかまれた。

「つべこべ言わずに来てよ。ご飯、ごちそうしてあげるから」

 グイグイと腕を引っ張られて建物のなかへ入ると、押し込むようにエレベーターに乗せられてしまった。中村はエレベーターパネルの〝10〟を押している。

(12階建ての10階か……。そういえばさっき、眺めはいいとか言ってたっけ)

 仁美は今すぐ帰るのを諦め、彼のあとに続いて部屋に入った。頃合いを見て出て行こうと考えながら、間取りを確認する。トイレは玄関のすぐ横だから、脱出はしやすいはずだ。

「けっこういい部屋に住んでるのね」

「将来、家族が増えてもいいように広めのマンションを買ったんだ」

「ずいぶんと用意周到ね。中村くんのお嫁さんになってくれるもの好きさんが現れるとは思えないけど」

「え、もういるよ」

「……つき合ってるひと、いるの? だったら私、やっぱり帰る」

「不倫してるのに、そういうの気にするんだ」

 仁美はバッグのひもをぎゅうっと握りしめて彼を見上げた。この男はひとの神経をさか撫でするのが本当にうまい。

「適当に座ってて。ご飯を作るから」

 憤慨したまま大きなソファにドカッと腰をおろす。思ったよりもフカフカで、跳ね返されそうになった。ふと正面の窓を見ると、美しい夜景が広がっていた。

「あ、すごい綺麗」

 仁美はつい感嘆の声を漏らしてしまった。言ってしまったあとで、いましがた怒っていたのに、となんだか調子が悪くなる。

「でしょ。夜もいいけど、朝陽が昇るときもなかなかのものだよ」

 グレーのエプロンを身につけた中村はトントントンと包丁でリズミカルな音を奏でている。どちらかと言うと草食系の見た目だから、料理をしている姿に違和感はあまりない。
 ソファに座ったまま、仁美はただぼうっと夜景を眺めていた。自分がいま彼の部屋にいることが不思議で、現実感がない。

「お待たせ」

「あ……ごめん、なにもしてなくて。運ぶの手伝うよ」

「気にしなくていいよ、座ってて。強引に連れて来ちゃったわけだし」

 両手に皿を持った中村を見て、仁美はつい手伝いを申し出てしまったが、たしかに彼の言う通りだ。仁美はここにいたくているわけではない。

「じゃ……、お言葉に甘えて」

 仁美は4人がけのダイニングテーブルの椅子に腰かけて、料理が運ばれて来るのを待った。彼が作っていたのは和食で、ぶり大根や和え物などヘルシーなものばかりだ。

「おいしそう。いただきます」

 見た目の通りどれもおいしくて、仁美はどんどん食べ進めた。きれいに完食して手を合わせる。
 さあ、あとはトイレを借りるふりをして帰るだけだ。

「中村くん、私お手洗いに……」

椅子から立ち上がった瞬間、立ちくらみなのか目の前が真っ白になった。

「……っ」

慌てて座り込むと、今度はまぶたを開けているのが辛くなって、仁美はゆっくりと目を閉じた。

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