いたずらな花蜜 ~妖精がつなぐ未発達な恋心~ 《 第一章 01

 ランプの薄明かりだけを頼りにアリシア・シュバルツは古めかしい書物のページをめくっていた。その碧い瞳はランプの灯りに照らされて爛々と輝いている。まるで彼女の好奇心を映しているようだった。
「――あのぅ、姫様。そろそろご公務にお戻りになったほうが……」
 アリシアがこもっている閉架書庫の入り口で、時間を気にしながらオロオロとしているのは王立図書館の司書であるキャサリンだ。手にしている懐中時計と、沈みかけている夕陽を交互にせわしなく見やる。
「うん、もう少しだけ……」
 もやは常套句であるアリシアの返答に、キャサリンはウェーブがかった金の髪の毛をフワリと揺らしてひそかにため息をつき、うなだれた。公務をサボって閉架書庫の書物を漁りにくる第一王女に、キャサリンは常日頃手を焼いている。
「……――これ、これよ!」
 王女の突然の叫び声にキャサリンはビクッと肩を弾ませた。アリシアの大声には、いつまで経っても慣れないようすだ。
「ど、どうなさいました? 姫様」
「神話の聖地を、見つけたわ!」
「ああ……。また、ノマーク神話ですか?」
「そう!」
 アリシアはかたわらに置いていた羊皮紙にスラスラと書物の内容を書き写していく。閉架書庫の書物は持ち出し厳禁なので、こうするよりほかにない。
「あの、いつも申し上げておりますが……姫様にでしたらお貸し出しいたしますよ」
「ダメよ! 例外を作ってはだめ。それに私、借りていっても失くしちゃいそうだし。……でも、ありがとうね、キャサリン」
 必要なところを書き写し終えたアリシアは満面の笑みでキャサリンを振り返った。
 気取らず、屈託のない笑顔を前にキャサリンの口もともゆるむ。
「いえ、そんな……。さて、次はフィース様のところですか?」
 「ええ!」と軽快に返事をしてアリシアは立ち上がり、彼女の髪と同じ色のドレスをひるがえす。薄桃色の鮮やかなドレスは可憐なアリシアによく似合う。
 淡いピンク色の長い髪の毛をなびかせて小走りしながら、アリシアは言う。
「ルアンドが来たら、うまく言っておいてくれる? それじゃあキャサリン、またね。お疲れ様!」
「わかりました。でも、期待はなさらないでくださいね。ルアンドには姫様の行動はお見通しですから」
 走り去っていく華奢な背中に向かってキャサリンは呼びかけた。アリシアはぶんっ、と豪快に右手を一振りしてウィンクをする。
 キャサリンはゆるんだ口もとのまま控えめに手を振り返し、ドレスのすそがめくり上がるのも気にかけず外廊の角をキュッと曲がっているおてんばな姫を見送った。


 アリシアは夕陽を眺めながら外廊を小走りしていた。吹き抜ける風は強く、つめたい風が頬を打つ。このシュバルツ城は小高い丘に位置しているから、街よりも少しばかり冷える。
(フィース……。鍛錬場にいるといいけど)
 いちばんの仲良しである幼なじみの姿を思い浮かべる。23歳という若さで王立騎士団の副団長を務める彼はここのところ多忙だ。以前のように、ふたりでこっそりと城を抜け出して遊びに行くということがめっきり少なくなった。
(それに最近は、ろくに話もしてくれないし……)
 彼は朝から晩までせわしなく働いている。忙しいのはわかるのだが、それはフィースが王立騎士団に入団した16歳のころから変わらない。それでも、少し前まではアリシアの寝室で一晩中、語り明かすこともあったし、フィースの屋敷でともに寝泊まりだってしていた。だから、接する機会は多かった。
 しかしそれも、年々減ってきて――。
(……寂しい、よ)
 アリシアが公務を怠ってフィースのもとへ向かうようになったのはごく最近のことだ。それまでは、夜になったら彼に会えるというのを楽しみに、苦手なダンスのレッスンや茶会、賓客のもてなしをきちんと――いや、たまに城を抜け出していたので――おおむね、こなしていた。
 フィースに会えますように、と願いながら城の地下にある騎士団の鍛錬場に到着したアリシアはそっと鉄扉を押し開けてなかをのぞいた。
 カキンッ、と金属がぶつかり合う音が響いている。フィースもまた、ほかの団員にまじって鍛錬に励んでいた。副団長である彼はすでにじゅうぶん剣の腕がたつのだが、とにかく体を動かすのが好きなので、フィースは日々の鍛錬を怠らないのだ。
「――姫様、またいらしたんですか」
 鍛錬場の入り口からなかをのぞき込んでいるアリシアに気がついたフィースが駆け寄ってきた。
「フィース……! あ、ええと……」
 迷惑そうな、困ったような顔をされると尻込みしてしまう。しかし食い下がる。
「お仕事の邪魔をしてごめんなさい。でも、あなたとゆっくり話がしたくて。鍛錬のあと、時間はある?」
「……俺は今日も遅くなると思うので……申し訳ございませんが」
 ――ああ、彼のこの他人行儀な話し方はどうも気にくわない。ふたりきりのとき、フィースは敬語なんて使わない。いまはまわりに騎士団の面々が大勢いるから、お互いの立場上しかたがないのはわかる。わかるからこそ、ふたりきりでゆっくり話がしたいというのに。
「……フィース、ちょっと」
 彼の腕をひっつかんで鍛錬場の外へと連れ出す。
「ねえ、明日はお休みでしょ? 遅くなってもいいから……。あ、そうだ。あなたのお屋敷に泊まりに行ってもいい?」
「いけません」
 即答され、アリシアはあからさまにムッとする。
「敬語はやめてよ。いまはふたりきりじゃない」
「……アリシア」
 フィースがため息をついたのがわかった。鍛錬場の外にはいまは誰もいないけれど、パブリックスペースであることには違いない。フィースは暗にそのことを言いたくて、こういう態度なのだろう。
(どうしてそんなに人目を気にするのよ。ちょっと前までは、どこでだっていつも通り話してくれたのに)
 話しかけるだけでそんなに迷惑をかけるのだろうかと不安になりつつ、しかしまだあきらめない。
「……じゃあ、お仕事が終わったら私の部屋に来て」
「仕事が終わるのは夜更けだ」
 フィースが銀の前髪を手でうっとおしそうにかきあげた。いまのいままで体を動かしていた彼は汗をかいている。前髪が額に張り付くのが気持ち悪いのだろう。
 アリシアはフィースの鮮やかな翡翠色の瞳を見つめて言う。
「いつまででも待ってる。だからあとで必ず来て。お願いねっ」

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